序にかえて
生体内のバタフライエフェクトを捉える
箕越靖彦
(生理学研究所生体機能調節研究領域)
はじめに
微小な変化が最終的に離れたところで大きな出来事を生む現象を意味し,カオス理論における予測困難性を寓意的にあらわす概念として,「バタフライエフェクト」が知られている.ここで考えられている長距離に及ぶ遠隔作用は,ある意味で,末梢組織で生じた小さなシグナル変化が,ホルモンや神経系を介して脳などに到達し,行動,代謝および免疫系を調節する現象とよく似る.その意味で,臓器間相互作用は地球レベルのバタフライエフェクトと相似といえる.本増刊号で紹介される研究は,個々の研究者の地道な研究によって,体内のバタフライエフェクトを医学・生物学の観点から解明したものである.
臓器間ネットワークによる生体の恒常性維持
生体の恒常性維持において,ホルモンと神経系は最も重要な調節系である.そして代謝と免疫は,それらの調節系の作用を受けてエネルギーと生体防御を担う.
代謝調節に及ぼす「臓器間ネットワーク」の重要性を最初に記述したのは,クロード・ベルナールであろう.ベルナールは,彼の代表的な著作である『実験医学序説』において,実験動物の第4脳室脳底を針で穿刺すると糖尿が生じることを報告した.その後,20世紀後半になってようやく,さまざまなホルモンが発見されることにより,ホルモンを中心に脳と末梢組織を結ぶ代謝臓器ネットワークの解明が進んだ.ホルモン研究に多くの日本人がかかわり,その発展に大きく貢献したことはよく知られている.しかしながら,日本人が脳・神経系による摂食・代謝調節作用の研究の発展に寄与したことはあまり知られていない.嶋津孝・愛媛大学名誉教授は,ウサギの視床下部腹内側核を電気刺激すると肝臓からの糖放出が高まること,その作用に交感神経系が関与することを世界で初めて報告した.また,新島旭・新潟大学名誉教授は,ほぼ同時期に,各臓器に分布する求心性神経と自律神経の遠心性活動を弁別記録し,各臓器に血圧,グルコース,浸透圧,熱,機械刺激等を感受するしくみがあること,それらの情報が求心性神経を介して遠心性出力を変え,恒常性維持に資することを発見した.さらに,大村裕・九州大学名誉教授は,視床下部にグルコースや脂肪酸など代謝物によって活動を変化させるニューロンが存在することを発見した.これらの研究は,Nature誌やScience誌に多数の論文が発表され,世界に大きなインパクトを与えた.3人の先達者以外にも,多くの日本人研究者が,同分野における研究の発展に大きく貢献している.これらの研究は,今日,世界中の研究者に引き継がれ,本増刊号で紹介する多くの研究の礎となっている.
本研究分野におけるその後の発展において,レプチンとグレリンの発見は大きい.同時に,分子生物学的研究手法の発展によって,臓器特異的な遺伝子改変マウスが作製され,それらの解析が進んだことで臓器間相互作用の重要性が明確となった.レプチンとグレリンの研究はさらに臨床応用へと進み,GLP-1(glucagon-like peptide 1)の研究へと発展した.レプチンが脂肪萎縮症に伴う糖尿病を劇的に改善すること,GLP-1作動薬が抗糖尿病薬としてだけでなく,抗肥満薬として大きな効果を示し,臨床応用に至ったことは,本研究分野の大きな成果といえる.ごく最近,糖尿病治療の観点から脳による調節作用を解明することの重要性がより明らかになりつつある.これらの研究によると,FGF(fibroblast growth factor)1または4を脳室内に投与すると,1回投与するだけで少なくとも1カ月以上,レプチンやレプチン受容体を欠損したob/ob,db/dbマウスの高血糖を改善する.研究はまだ始まったばかりであり,FGF1と4が脳にどのような作用を及ぼすかはいまだに不明である.しかし,これらの研究は脳による代謝調節作用が新しい糖尿病治療につながる可能性を期待させる.
視床下部など脳神経回路の研究に比べて,自律神経や求心性神経は分子生物学的手法を用いて選択的に活動を操作することは限定的である.そのため,今日においてもその代謝調節作用は不明な点が多い.しかし,それでも多くのことが明らかとなってきた.交感神経による代謝調節作用は,主としてグリコーゲン分解,糖新生,脂肪分解への効果から研究が進み,ストレスやエネルギー飢餓における代謝反応として理解されてきた.しかし,レプチンの発見に前後して,交感神経が,グルコースや脂肪酸の産生だけではなく,エネルギー基質としてグルコースや脂肪の利用を促進することも明らかとなった.交感神経は,骨格筋などエネルギー消費器官においてインスリン感受性を高めることによりグルコースの利用を促進する.レプチンによる抗肥満作用および抗糖尿病作用は,交感神経による代謝調節作用も関与すると考えられる.他方,副交感神経による代謝調節作用はいまだに不明な点が多い.しかし,インスリン分泌に及ぼす迷走神経の重要性は,今日,きわめて明確となった.今後,副交感神経の調節作用は,迷走神経の働きを中心にその役割が解明されると思われる.自律神経による代謝調節作用は,ストレスなどによる個体全体での反応に加えて,臓器・組織・細胞特異的な調節作用を及ぼし,バタフライエフェクトの重要なプレーヤーである.
神経系を介した免疫・炎症反応の調節作用は,近年,大きく発展した分野である.求心性神経は古くから炎症反応と密接に関係することが知られていたが,これに加えて,交感神経と副交感神経も免疫細胞に直接調節作用を及ぼすことが明らかとなった.とりわけ,迷走神経による炎症抑制効果および前述したインスリン分泌への促進作用は,近年,注目されている.迷走神経をヒトにおいて直接・間接的に刺激し,インスリン分泌や炎症反応を制御する試みが始まっている.
脳・神経系の研究は,電気生理学による解析を中心として解明が進んできたことから,急性反応を取り扱うことが多い.しかし,レプチンの働きからも明らかなように,脳や神経系には長期的な調節作用も存在するはずである.特に,肥満や糖尿病などの疾患においては,炎症への効果を含めて慢性的な効果が重要である.本増刊号においても3章-6で概説されているように,αシヌクレインがプリオン様に迷走神経を介して末梢から脳内に伝搬し,神経変性疾患を引き起こすことは大変興味深い.肥満や糖尿病においても同様の作用が引き起こされる可能性がある.
運動と生体リズム,そして冬眠は,「臓器間ネットワーク」が大きく関与する代表的な生理現象である.これらの生理的反応は,臓器・組織が個々の機能を発揮しながら調和を保ち,個体としてきわめて整合性のある反応を示す.そのためにはさまざまな機構が作用を及ぼしているに違いない.本増刊号では,その調節機構のなかで,特に脳・神経系による調節作用を取り上げ,概説していただいた.他分野で研究される読者の方にも大いに参考になると思う.
おわりに
バタフライエフェクトは,予測困難性を寓意的にあらわす言葉であるが,本研究分野が大きく異なる点は,実験的に操作可能なことである.分子遺伝学的手法を駆使することによって,すべてではないものの特定のニューロン・細胞を選択的に操作することが可能であり,本増刊号で紹介される研究の多くもこの技術を利用している.しかし,それでも多くのシステムがかかわるために,本研究分野は現在もなお,解明が困難な分野の1つである.さらなる技術革新が必要であるだけでなく,研究者が生体の働きをどのように捉えるかが,研究の方向性に大きく影響すると思われる.「合目的性」を追究することは多くのリスクを有するが,個体レベルでその機能を明らかにするとき,その「合目的性」は重要なキーワードと思われる.生命は,進化の過程において常に恒常性を保ち,それを達成するために必要な合目的的と思われるシステムを巧みに構築してきた.本増刊号を読んだ多くの読者が,本研究分野に参入され,解明に挑むことを期待したい.
著者プロフィール
箕越靖彦:1987年愛媛大学大学院医学研究科博士課程修了,医学博士.同年同大学医学部医化学第一助手,’92年シカゴ大学生化学教室に留学(G. Bell教授).’93年愛媛大学医学部医化学第一講師,同助教授を経て,2000年よりハーバード大学医学部(B. B. Kahn教授)にVisiting Associate professorおよびLecturerとして留学.’03年より現職.’24年3月に定年を迎える.当研究分野のさらなる発展を期待している.