実験医学増刊:大規模データ・AIが切り拓く脳神経科学〜見えてきた行動、感情、記憶の神経基盤と精神・神経疾患の生物学的なサブタイプ
実験医学増刊 Vol.42 No.7

大規模データ・AIが切り拓く脳神経科学

見えてきた行動、感情、記憶の神経基盤と精神・神経疾患の生物学的なサブタイプ

  • 笠井清登,榎本和生/編
  • 2024年04月19日発行
  • B5判
  • 199ページ
  • ISBN 978-4-7581-0418-0
  • 6,160(本体5,600円+税)
  • 在庫:あり
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序にかえて

大規模データ・AIの発展により変曲点を迎えた脳神経科学研究

榎本和生1),笠井清登2)
(東京大学大学院理学系研究科生物科学専攻/ ニューロインテリジェンス国際研究機構1),東京大学大学院医学系研究科精神医学分野2)

はじめに

昔も今も変わらぬ神経科学者の夢は,脳を構成するすべての神経細胞の活動を記録し,そこに含まれる情報を完全に解読することである.解読した情報を,最終的に動物やロボットにインストールすることで,生物の応答や行動出力を完全に再現できれば,われわれは脳のしくみについて一定の理解にまで到達したといえるだろう.ひと昔前は,このような目標は純粋な夢として語られることが多かったが,神経活動記録デバイスやセンサーの時空間精度の向上,コンピューターの計算パワー強化,光遺伝学的手法の開発など最近10年間の技術革新により,到達可能なゴールとして議論されるようになってきている.さらに,得られた脳の大規模データやそれを扱う技術にもとづき,脳の疾患メカニズムの理解が深化し,また脳の情報処理を模した次世代型の人工知能(AI)開発に向けた試みもはじまっている.このように脳研究は,これまでにも増してエキサイティングな時期を迎えているといえる.本増刊号を読んで,特に若い学生や研究者の方に,大きな変曲点を迎えた脳研究が見せるダイナミックなうねりを感じていただけると幸いである.

1.コネクトームデータとブレインワイドの神経活動データの融合文責:榎本和生

ヒト脳であれば約1,000億個の神経細胞と同数のグリア細胞からなり,それぞれの神経細胞が約1万個のシナプス結合をもつ.さらには,個々の神経細胞が独立した情報を担うヘテロな機能素子であるという点で,脳は他臓器と比べてユニークであり,かつ実験アプローチが難しい.従来の研究では,各研究者が技術的にアプローチしやすい特定の神経細胞,シナプス,回路に特化した解析が主流であった.このような状況を打破すべく,脳神経回路全体の構造と機能を俯瞰して捉えようとする試みがコネクトーム(connectome)プロジェクトである.オバマ大統領時代の2013年にアメリカで開始されたブレイン・イニシアティブは,2025年を目処に,脳神経回路の全構造をシナプス結合レベルで解明し作動原理を理解することをめざして,まずショウジョウバエとマウスを対象に全脳神経回路解明を行っている.これまでに,約10万個の神経細胞で脳が構成されるショウジョウバエでコネクトーム解析が完了し,2022年にメス脳の全コネクトーム論文が公表された.ジャネリア研究所およびプリンストン大学から提供されているショウジョウバエ脳の完全コネクトームデータと解析プラットホームは非常にパワフルであり,脳内の特定神経細胞やローカル回路を起点として,ブレインワイドの回路・機能・行動研究へと容易に発展させることができる.約1億個の神経細胞から成るマウス脳については,大脳皮質の一部や小脳などの大まかなコネクトームデータが公表されている.本邦でもマーモセット脳前頭葉の大まかな回路構造を世界に先駆けて公表するなど大きな成果をあげている(渡我部ら,第4章-3).

コネクトームデータは,ゲノムでいえば遺伝子情報の解読まで辿り着いたステージといえる.現在,ゲノム研究の中心は,エピジェネティック修飾や3D構造変動を含む時空間レベルのダイナミクス制御へと移っている.同様に,コネクトームの次のステージは,回路構造にもとづくダイナミクスや制御の解明へと移行することは必然といえる.サブミリ秒スケールで発火する神経活動は,神経細胞の活動パターン自体が膨大な情報量をもつのに加えて,神経細胞間の同期性や集合性など集団レベルの時空間情報が乗ってくる.そのうえにコネクトームから得られる局所(ローカル)回路やシナプス結合情報も入るので,活動記録の時空間精度が上がるにともない,扱うデータ量が爆発的に増えていく.脳がコードする情報を解読するためには,このようなビッグデータを正確に取り扱い,そのなかから意味のある情報を抽出する技術がカギとなる〔第1章-1(平)第1章-2(木村)第1章-3(北西)第1章-4(髙野ら)第1章-5(辻󠄀ら)第1章-9(細川ら),および第3章を参照〕.最終的に解読した情報を動物の脳内にインストールするためには,複雑な3D構造をとる脳のなかの特定神経細胞をミリ秒レベルの時間枠でシークエンス状に発火させる技術が必要であり,そのためにホログラフィック技術などを用いた試みがはじまっている(和氣ら第1章-11).

時空間精度だけではなく,研究者が観察できる脳領域も大きく拡大し,全脳レベルの活動計測も夢ではなくなっている.ブレインワイドの神経活動データとコネクトームデータとを合わせることにより,脳領域間をつなぐ神経回路の機能,中枢回路と末梢回路の機能的相互作用,異なる感覚受容野を統合するマルチセンシング機構など,グローバルな回路情報と脳機能との因果関係も理解できるようになってきた〔第1章-2(木村)第1章-7(日吉・渡部)第3章-1(川島)第3章-4(齋藤ら)を参照〕.当然ながら,神経回路は脳だけに留まらず,体全体に張り巡らされていることから,脳以外の臓器との相互作用も研究対象となってきている.近年の脳RNA-seqデータから,脳内に特定の免疫細胞が常在もしくは侵入することが明確となり,精神神経疾患との関連も見えつつある(田中ら第1章-6).また,脳と腸,脳と心臓など,神経-内臓連関における双方向性の制御もわかってきている(佐々木第1章-8).

ヒト脳組織を用いた生理学研究は,一部の特例を除き本邦では依然として難しい状況であるが,iPS細胞技術やオルガノイドなどを用いて一部の神経回路機能の再現が可能となってきている.また,ヒトゲノム情報は,技術的な問題により未解読であったセントロメアやテロメア付近の配列も整備され,ほぼ完全な塩基情報が提供された(鈴木ら第1章-10).パーソナルゲノム解読に要するコストや時間も大きく低減しており,疾患ゲノム情報とあわせて,ヒト特有の神経機能を生み出す脳神経回路研究にも今後の大きな進展が期待できる.

2.大規模データ・AI解析から見えてきた精神・神経疾患の新しい生物学的なサブタイプ文責:笠井清登

精神・神経疾患においては,1人ひとりの患者の症候・表現型は多様であり,一定の症候・表現型の組合わせで定義された症候群のなかには,生物学的異種性が必然的に生じる.したがって病因・病態の解明のためには,生物学的なサブタイプを同定し,そのサブタイプごとに分子細胞生物学的な解析を進めていく必要がある.また生物学的異種性を生じる要因として,ゲノム素因だけでなく,ライフステージ上のさまざまな社会・環境要因からの影響やそれへの応答の累積が個体の脳回路を変化させ,疾患への脆弱性を形成することを考慮する必要もある.精神・神経疾患を解明するうえでのこうした本質的な困難性は従来から指摘されていたが,さまざまな技術革新を待つ必要があった.

まず,生物学的サブタイプの同定のためには,数千例以上の規模の生物学的データの取得が必要である.これはゲノムデータについて先行して実現したが,精神疾患においてはcommon variantのオッズ比がきわめて小さい一方で,rare variantで説明できるのは疾患母集団のごくわずかであることが判明してきた.そのため,脳画像などの中間表現型を用いたサブタイピングへの要請が高まった.脳画像のうち最もよく研究に用いられてきたのがMRIであり,これを多施設・国際共同で大規模に集積する試みが国内外ではじまっていった.異なるスキャナーで撮像されたデータを用いた解析を,どのように撮像プロトコールの統一や数理科学的なハーモナイゼーションによって達成するかの取り組みが米国Human Connectome Projectや日本の国際脳プロジェクトなどで展開された〔第2章-1(小池)第4章-2(麻生・林)〕.また,国際的なオープンサイエンスの流れで,これらのデータベースを撮像時の段階から被験者に同意を得て,顔情報などを削除して個人が同定できないようにしてから非制限公開する努力も進められている(田中,第4章-1).

次に,実際に数千例規模のデータを解析すると,これまで知られていなかった精神疾患の新しいバイオタイプの同定の成功例が出てきた.一例をあげると,日本の革新脳・国際脳プロジェクトで見出された,統合失調症における淡蒼球体積増大所見がある.こうして得られた,エビデンスレベルがロバストなバイオマーカーを起点としたリバーストランスレーショナルリサーチが日本で先駆的に展開されている.ヒト疾患でみられた淡蒼球体積増大というバイオタイプをマウスin vivo MRIで検出しつつ,社会環境因子の負荷を加味して,その分子・細胞レベルの病態をAIによる行動データ解析を組合わせて解明しようとする動きである(柳下,第2章-5).

さらには,こうした脳画像を起点として,分子・ゲノムなどの多階層のデータベースを構築し,数理解析にもち込もうとする計画(小池,第2章-1)や,MRIを中心とした多階層データベースをヒトとマウスなどの実験動物で相同性のある形で作成し,双方向的トランスレーショナル研究を加速しようとする動きもはじまっている(柳下,第2章-5).

ヒトの精神・行動や精神疾患における症状の定量化は,これまで心理学的な尺度(自己記入式および他者評価式)によって行うことがゴールドスタンダードであった.数千人規模の思春期コホート研究の縦断データが蓄積してきたことにより,これを深層学習により解析すると,これまでに知られていなかったクラスターとして,自己記入式(主観)得点と他者(養育者)評価得点の差が大きいサブグループが見出され,自傷や希死念慮などの深刻な精神保健アウトカムと関連していた.このように大規模な心理・行動の縦断データとAI技術の発展は,発達心理学や発達精神病理学に新たな展開をもたらすものと期待される(長岡ら,第2章-3).

おわりに

本特集では,大規模データの蓄積と技術革新の相乗効果により,精神・神経疾患の新しい生物学的なサブタイプの同定が現実的となり,病因・病態の解明にゲームチェンジが生じつつあることを紹介させていただく.基礎神経科学者と臨床医学者と数理科学者の相互「翻訳(トランスレーショナル)」体制を着実に構築してきた日本の脳科学研究が,「翻訳(トランスレーショナル)」研究で強みを発揮する時代がついに到来したのだと捉えている.

著者プロフィール

榎本和生:東京大学大学院理学系研究科・教授,東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構・副機構長.1997年,東京大学大学院薬学系研究科博士課程修了.東京都臨床医学総合研究所・研究員,カリフォルニア大学サンフランシスコ校・客員研究員,国立遺伝学研究所・独立准教授,大阪バイオサイエンス研究所・研究部長を経て,2013年より東京大学大学院理学系研究科教授.’15年より新学術領域研究「スクラップ&ビルドによる脳機能の動的制御」領域代表を務め,’17年より東京大学国際高等研究所ニューロインテリジェンス国際研究機構(WPI-IRCN)副機構長.脳が心や個性を生み出す仕組みに興味がある.

笠井清登:1995年,東京大学医学部卒業,東京大学医学部附属病院,国立精神神経センターなどで精神科臨床の研鑽を積む.2000〜’02年,ハーバード大学医学部精神科客員助手,’08年〜,現職(東京大学大学院医学系研究科精神医学分野教授).’17年〜東京大学ニューロインテリジェンス国際研究機構(IRCN)主任研究者を併任.統合失調症などの精神疾患の脳病態をMRIやEEGなどで明らかにしてきた.ヒト・精神疾患MRIデータベースの構築や国際連携を進めている.

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見えてきた行動、感情、記憶の神経基盤と精神・神経疾患の生物学的なサブタイプ

  • 笠井清登,榎本和生/編
  • 6,160(本体5,600円+税)
  • 在庫:あり