はじめに
8月も残りわずか。私はどうしてもやらねばならない仕事を2つ抱えている。1つは本書を書き上げること、もう1つは──こちらのほうがよっぽど差し迫っているのだが──キッチンにある数キロのズッキーニをさいの目に切り、ピクルスにして保存すること。ここには大昔からヒトを悩ませてきたジレンマが横たわっている。すなわち、余った食べ物をどうするか? 食べきれない分は誰かと分け合うべきなのか(誰と?)、それとも、後々のために保存しておくべきなのか(どうやって?)。幸いなことに、次の季節が来ても食料が足りなくなることはないので、保存については考えなくてよい。私がピクルスを作ろうとしているのは、単にそうしたいからだ。ところが私たちの祖先にとっては、食べ物が余るのも善し悪しだっただろう──困難極まるというほどではなかったにしろ、祖先たちは認知的にも社会的にも途方に暮れていたのではないだろうか。
ズッキーニのピクルスは絶品だ。これから数カ月後には冬本番を迎えるが、このピクルスを口にすれば、夏の記憶がありありとよみがえってくるだろう〔1〕。しかしそれにもまして、思いもよらぬよろこびを得ることができるはずだ──主菜を彩るだけの脇役でしかないにもかかわらず。少なくとも私にとってこのピクルスには大きな認知的価値があるらしく、その価値は多岐にわたっている。このよろこびの源泉はというと、かつての夏の記憶であり、あるいはほとんど自らの手で仕上げたものを食べているという誇りと達成感、そして栽培から収穫、下拵え、保存に至るまでのあれこれについて、じかに知っているという満足感である。さらには安心感すらもある──いつかこの高度文明社会から振り落とされることがあっても飢え死にすることはないだろう、私にはこの手作りピクルスがあるのだから。
このようなことを書き連ねていると、「食にすこぶる関心をもった、新手のアメリカ人」だと思われるだけかもしれない。つまり正統な料理文化から少しずれていると。食品産業のグローバル化によって(同時にローカル化の重要性も説かれているが)、今までは手に入らなかった世界各国の食材を買えるようになり、その結果、異端の料理文化が生まれた、私はその担い手なのだろうか? たしかにそうかもしれない。しかしこれを認めたところで、ピクルスの入ったガラス瓶を見てあれほどのよろこびが感じられる理由を説明できるわけではない。食べ物には意味があるのだ。食べ物が記憶を呼び覚まし、食べ物がアイデンティティを形成する。本書で私が主張したいのは、感情にはいくつもの要因が──厳密に言えば、いくつもの歴史が──絡み合っているということだ。
第1の歴史として、個人的な文化史がある。私はアメリカに生まれ、1960~70年代に毎日のように保存食品や加工食品を食べながら育った(今も食べている)。実際アメリカやその他の先進諸国で暮らしていれば、この種の食品に事欠かない。もちろん自家栽培の野菜などと比べて健康には悪いが、新鮮さとはどれほど無縁であろうとも、何らかの加工がなされた食品を進んで選ぶ。そうしたことが先進諸国に共通する文化的な特徴となっている。そして第2の歴史には、私の家族が食べ物と家庭菜園をかなり大切にしていたということがある。両親は可能な限り、庭で新鮮な季節の野菜を育てていた。収穫した野菜を瓶詰めなどにもしていたが、当時ここまでするのはいささかやり過ぎだと考えられていたし、やや古くさいとさえ言われていた。とはいえ食べ物がたっぷりあること、これが重要なのである。家計が苦しいときでも常に十分な食べ物に恵まれていたことは、両親の誇りだったのだ(世界大恐慌と第2次世界大戦の時代を経験したからこその誇りだろう)。このようなわけで、家庭に深く根づいた食べ物──たとえばズッキーニ──によって、私のなかに記憶や誇り、そして家族にまつわる強烈な感覚が呼び覚まされるのは、決して驚くにあたらない。
最後に挙げるのは、全人類に共通する進化史である。ヒトが生きていくためには、ほかの動物と同じく食料が欠かせない。自然選択の結果あらゆる動物には、食料を追い求め、獲得し、摂取しようとする行動メカニズムが備わっており、さらに、より高度に発達した認知体系を有する動物であれば、食べ物を巡る活動によろこびを見出していることだろう。ヒトが動機づけや快感、報酬を認知する基本的なメカニズムは、依然としてほかの生物と変わらない。しかし私たちの認知が表出・形成される背景には、移りゆく文化がある。ヒトの進化と進化心理学における研究目標の1つは、私たちの行動、感情、認知、感覚を、生物学と文化の相互関係として理解することだ。ズッキーニの例で考えてみよう。収穫から数カ月経った後にそのピクルスを口にするよろこびは、たしかにある程度は私の家庭環境と文化的環境に由来するが、それだけでは説明しきれないほどに奥深く、かつ普遍的なのだ。ここでの課題は、私のよろこびの一部を生物学で説明し、別の一部を文化的環境によって説明することにあるのではない。そうではなく、生物学的な過去と文化的な過去が混ざり合うことによって、1つの複雑な感情が産み落とされると解釈しなければならないのである。
本書『美食のサピエンス史』で私が目指すのは、ホモ・サピエンスが、どのような脳の働きによって食べ物を「とらえて」いるか理解することだ。私たちの認知の複雑さと知能の高さはほかの動物と比べて抜きん出ている。そして食事についてもまた独特であって、雑食動物ならほかにもいるが、ヒトの雑食性は単純に食べられるものを食べるという段階にとどまらない。食べ物には文化が絡んでいるからだ。私たちはそれを単なる栄養としては見ていない。自分で気づかないうちでさえ、文化によって与えられた重要な意義を感じ取っているのだ。また、耕作や調理技術によっても食の領域は拡大され、古くは何百万年前にまでさかのぼる技術があるいっぽうで、ごく最近生まれた技術もある。
私たちの食生活とそれについての考えには、人類の独特な自然史が見てとれる。一方では哺乳類であり霊長類である私たちの食事と食物観は、動物学的な仲間と共有する何百万年もの進化から大なり小なり影響を受けている。ところが最後の約500万年で、人類は独自の進化の道を歩むこととなった。知能が高まるにつれ意識や言語の感覚はいっそう豊かとなり、行動の適応性や柔軟性だけでなく文化も発達した。脳の働きによって生み出されたこのような変化によって(脳そのものが過去数百万年で構造的に変化し、容量も大幅に増えている)、私たちの食べ物との関わり方や食べ物に対する考え方、さらには食行動の本質が形作られてきた。
私は食とヒトのこのような関係について、認知的な観点からアプローチしたいと思っている。となれば生物学的・進化学的な過去への言及は必須であり、またヒトとその祖先が何千年も身を置いてきた文化的環境についても述べる必要があるだろう。本書を通じてぜひとも示したいのは、脳の認知システムを解きほぐすことによって食の本質に迫れるということ、そしてさらには、食べ物の獲得・調理・摂取が、ヒトの社会的・文化的環境における認知の諸相に直接的な影響を及ぼしているということだ。そこで提言がある──ヒトは「食の理論」を進化させてきたのではあるまいか? すなわち私たちは、おのおのが属する食環境を系統立ててとらえるために、複雑な認知の適応を繰り広げてきたのではないか。この理論は言語やジェンダー、社交性がそうであるように、人間精神の一部をなしている。
言語についてはもう少し詳しく触れておくべきだろう。というのも、ヒトの行動は「食べる」をはじめとして、すべて文化的環境の中におさまっているが、言語はその輪郭を浮かび上がらせてくれるからだ。さらに言語を使うという行為は、必然的に生物学的・文化的な影響を受けるため、この点で「食の理論」に類似している。つまり、いずれも「
ヒトの経験において言語はこのうえなく重要であり、私たちと大型類人猿を明確に分かつものとして、言語獲得ほど決定的なものはない。言語はヒトの認知と思考に革命をもたらし、その結果、文化が複雑に発展を遂げただけでなく、ヒトは情報をひとまとめにして記憶できるようになり、長期にわたる集中的な学習も可能となった。なるほど私たちは生物学的に見ても行動の面から見ても、ほかの動物とあらゆるレベルでのつながりがある。しかしヒトの行為──性交と求愛、暴力と攻撃、利他的行動と懐柔、健康と病気──は、おのおのが属する文化的環境と認知的環境によってことごとく作り替えられているのだ。
食事や食に対する態度もまた、このような文化的・認知的環境によって作り替えられている。私たちは脳で食べているのだ。もちろん脳で食べ物を咀嚼しているわけではないが、ヒトにとって「食べる」とは、摂取や消化だけの話にとどまらない。そこには必ず意思決定と選択がある。単に食べられるものを食べているだけでもなければ、おいしいからといってそればかり食べるわけでもない。生活における食べ物の役割は、カロリーや栄養素などの単純な次元をはるかに超えているのだ。
私たちは食べ物をどんなふうにとらえているのか? そのプロセスは何かを認知するときとおおかた同じで、脳の発達した神経経路・神経ネットワークと、身の回りの文化的環境によって形成されている。脳は文化を創り出す究極の根源であり、いまだに進化し続けているが、そうやって生み出された文化がまた脳の機能に、そして──程度こそ小さいが──脳の構造にまで影響を与えている。つまり私たちの行動と認知は、まさに「生物×文化的」な現象だと言える。基本的なところで、たとえば空腹について考えてみよう。この感覚を統制・監視するメカニズムは脳に深く根づいており、ヒトと哺乳類とのあいだに違いはない。ところが空腹感はきわめて主観的なもので、個々の経験や心理状態に左右される。そしてもちろん、食文化にも影響されるのだ〔3〕。
「食べる」とは言語と同じくヒトの経験に欠かせない行動であり、この行動をさまざまなレベルで調べ上げていくことは、じつに実りの多い作業である。認知が表出・形成されるレベルにはいろいろあるが、食べ物はその各層においてどのようにとらえられているのだろうか? 食べ物と食習慣について考えることで、脳機能のさまざまな面がわかってくる。つまり食行動に着目すれば、プリズムが白色光を原色に分散させるように、脳の基本的な神経経路を解き明かすことができるのだ。ヒトの食事とは、ひとりひとりの食行動を総合したところに浮かび上がる、文化的現象である。そして文化とは個々の脳活動の総和であると同時に、脳の活動を増幅・増強させるものでもある。したがって雑食である私たちの食へのアプローチを理解するには、ヒトの食事を「生物×文化的」な現象としてとらえなければならない。
本書ではこの先、ヒトの食事と食行動の基盤について、進化学的観点、文化的観点、そして認知神経科学的な観点から見ていくことになる。第1章ではこのアプローチを紹介するために、多くの人々を魅了してやまない「サクサク」の食べ物に着目し、なぜそれほど人気なのかを考察する。第2章では、霊長類の発生からきわめて雑食性に富む現代までを概観し、食事の歴史を跡づける。食にまつわる諸感覚については第3章で触れ、味というものが生物学的であると同時に文化的である理由に焦点をあてる。第4章で扱うのは、「よりたくさん食べたい」という自然な性向だ。それから一般性はぐっと下がるが、同様に興味深い「食べる量を減らしたい」という現象も見落とせない。第5章ではさまざまな記憶表象・記憶段階について考え、食べ物がどのようにして想起における特別な役割を果たしているのか考察する。第6章のテーマは「分類」と「カテゴリー化」だ。食環境は巨大かつ複雑なものだと考えられるが、ヒトが世界という対象にどんな分類・カテゴリー化を施しているか探ることで、私たちの心のなかでは、環境というものがどのように整理・単純化されているのか見えてくる。そして第7章では、もっとも独創的な生き物であるヒトが、食に関していかなる創造性を発揮しているかに目を向け、最後の第8章は「食の理論」についての詳説にあてる。この考えが読者のみなさまに進んで受け入れてもらえることを願っている──少なくとも消化不良にだけはならないことを。
原注
- レシピについてはE. Topp and M. Howard, The Complete Book of Small-Batch Preserving(Buffalo: Firefly Books, 2007), 174.
- S. Pinker, The Language Instinct (New York: HarperPerennial, 1994).(『言語を生みだす本能』スティーブン・ピンカー著、椋田直子訳、NHK出版)
- J. Vernon, Hunger: A Modern History (Cambridge, MA: Belknap Press of Harvard University Press, 2007).