PEAK books:人類は感染症とともに生きていく〜学校では教えてくれないパンデミックとワクチンの現代史
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人類は感染症とともに生きていく

学校では教えてくれないパンデミックとワクチンの現代史

  • ミーラ・センティリンガム,Meera Senthilingam/著,石黒千秋/翻訳
  • 2020年12月18日発行
  • 四六判
  • 207ページ
  • ISBN 978-4-7581-1216-1
  • 1,980(本体1,800円+税)
  • 在庫:あり
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序 章

911号室

アウトブレイクにはいずれも、その発生地、感染経路、 初発症例 インデックスケース がある。ヒトがいて場所があればすべてが始まり、歴史が作られる。近年のアウトブレイクといえば、2003年に起きた SARS サーズ (重症急性呼吸器症候群)だ。世界的な広がりを見せたこの保健衛生上の緊急事態は国際問題となったのだが、話は1人の医師と1軒の旅行者用の人気ホテルから始まる。

2月21日、 劉劍倫 りゅうけんりん 医師は香港の市街地、九龍にあるメトロポールホテルの911号室にチェックインした。劉医師は親類の結婚式に出席するために香港に来ていたが、疲れ切っていた。数カ月の間、彼が勤める広州市の病院は多忙を極めていた。肺炎に似た感染症が港湾都市である広州市で突発し、またたく間に広東省内に広まり、前年の11月以来の患者数は1500人を超えていた。劉医師自身は、出発の時点で気分がすぐれなかったが、出かけたい気持ちが強かった。香港に着いた彼は、前回来たときから街の様子が変わってしまっていたので、あちこち探検してみることにした。しかし、翌日の2月22日には体調が悪化し、高熱が続いて息切れし、血中の酸素濃度が低下したため、ホテルから最も近い広華医院に入院した。9日後、彼はその病院で帰らぬ人となった。

劉医師を死に至らしめたウイルスにとって、彼の体は世界を旅するための足がかりとなる舟だった。このウイルスにより、2003年7月までに香港だけで1755人が感染し、32の国と地域で8000人以上が感染し、774人が亡くなった。

九龍に滞在する「めずらしい症例の患者」の診察に呼び出されたのは、香港大学微生物学部に籍をおく感染症の権威であり、同大学に付属するクイーン・メアリー病院の医師である 袁国勇 えんこくゆう 教授だった。「患者さんは重態で、すでに感染症に対する治療手段はすべて講じられていました」と袁教授は語った。劉医師(現在では、保健当局の注目を集めた「初発症例」として関係者に認識されている)が接触した香港在住の義兄弟にも同じ症状が現れたため、すぐに同じ病院に入院した。2人とも、どこで拾ったかわからない軽いかぜだと診断され、かぜの治療が行われた。しかし、治らなかった。この不可解な事象の解明に袁教授の研究チームが乗り出した。

劉医師が働いていた広州市の病院では、患者の治療に当たった100人以上の医療従事者が感染していた。袁教授が驚いたのはこの点だった。「普通のかぜなら、マスクなどで容易に予防できるのですが、この事例はそうではありません」。劉医師の肺生検の結果がすぐに得られたが、それはかつて見たことのないものだった。後にSARSとして知られるこの感染症はコロナウイルス科のウイルスが原因だった。コロナウイルスは普通のかぜの原因でもある。SARSはコウモリがウイルスをジャコウネコに媒介し、それがヒトに広がったとの疑いが濃厚だが、発生源となった生物は不明だ。ウイルスをコントロールする挑戦がすぐに始まった。劉医師がホテルに泊まったことから、世界的な取り組みになった。ウイルスはすでにヒトの体内に入り込み、飛行機で遠くシンガポールやカナダに向かった。そして200人を超える感染者を出した。

この感染症に対するワクチンも治療法もなかった。代わりに、世界的なサーベイランス体制が敷かれ、検疫での感染者発見を通じて接触者を追跡した。現在はパンデミックとされているこのアウトブレイクは、5カ月後に終息した。

しかし、SARSの記憶を消してしまうような事態が起こった。SARSコロナウイルスに近縁のウイルスによって、2019年末に大規模な惨事が引き起こされた。新型コロナウイルスは武漢市の海鮮市場から広がったとされているが、またもや、発生源の生物はわかっていない。1カ月も経たないうちに感染者は9800人を超え、210人を超える死者が出た。この感染症はCOVID-19と命名され、発熱と倦怠感、空咳を主徴とし、高齢者などでは重篤化して呼吸困難に陥ることがある。また、発生から1カ月の間に19の国に広がり、感染者の大多数――9700人以上――が中国での症例だった。感染の拡大は急速で、数週間で中国全土から感染事例の報告があり、武漢市のある湖北省は依然として爆心地だった。

武漢市は封鎖され、主要な航空会社は中国へのフライトを相次いで運休し、中国にいた旅行者は各国政府が用意したチャーター機で帰国した。中国との国境は閉鎖され、世界中の空港で健康チェックが実施された。移動を自粛し、WHOは中国国民に対して持ち上がっている偏見に注意喚起した。

しかし、中国も世界も、SARSから学んでいた。医療システムは劇的に強化され、中国政府には未知の伝染病を食い止める用意があった。医療が崩壊しそうなときは、ほんの数日のうちに新しい病院を建てることも可能だ。2020年3月になると、感染者数は10万(うち8万は中国での症例)、死者数は4000人を超えたが、この月は中国内外でのアウトブレイクの転換期でもあった。中国では日々報告される新規感染者数が減少した。もっとも、中国政府の透明性については疑問があり、感染者の定義にも変更があった。

中国での新規感染者数の減少に伴い、他の国が注目されるようになった。特に、韓国とイタリアとイランでは3月初旬に数千人が新たに感染していた。 72カ国から感染例の報告があり、クルーズ船「ダイヤモンド・プリンセス」は乗客の検疫のために横浜に入港し、706人の感染が確認された。こちらについても、乗客はチャーター機でそれぞれの国に帰った。WHOはすべての国を対象に、十分な備えをしておくように指示した。すなわち、外部から持ち込まれるウイルスにも、地元で伝染するウイルスにも対応できるようにしておくこと、そして、研究機関は感染が疑われる場合に該非の判定ができること、病院は患者を隔離して治療に当たることが柱となった。

国際便の欠航はますます増え、隔離のための区域が設定され、地域間の往来も制限され、医療システムは再編された。一方で、ワクチンと治療法の開発が多面的に進んでいる。研究者は、中国での新規感染が減っていることから、他の場所でもそうなりうると考えている。ピークを越えれば低減をたどるのはウイルスも同じで、いつかはなくなるだろう。今は、やって来たウイルスが広がってしまったが、本来あるべき場所に収まることを私たちは期待している。

しかし、確実なことが1つある。これらのコロナウイルスは私たちの世界に責任を問うているのだ。SARSは、感染症対策となれば、国や地域といった制限を外して世界が一致団結してパンデミックと戦わなければならないこと、そして理想的にはパンデミックを防げることを教えてくれた先例だ。あれからほぼ20年が経ち、COVID-19が出現した。だが、私たちはまだこれに有効に対処できていない。一地方のアウトブレイクが世界規模のパンデミックという重大問題に発展しかねないのだ。

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学校では教えてくれないパンデミックとワクチンの現代史

  • ミーラ・センティリンガム,Meera Senthilingam/著,石黒千秋/翻訳
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