第1章 総論 Multimorbidity の基本的な考え方
5. Multimorbidity診療を担当する医師が直面する意思決定ジレンマ
尾藤誠司
(国立病院機構東京医療センター総合内科)
Point
- Multimorbidity診療において意思決定ジレンマが発生する理由は,意思決定が与える影響の複雑さによる
- まずはMultimorbidity診療において意思決定ジレンマに気づくことが肝要である
- 正解を出すことではなく,患者にとってよいことは何かを中心に意思決定を考える
はじめに:医療者がMultimorbidity診療にて「難しい」と感じていること
Multimorbidity(マルチモビディティ)の状況にある患者に対するケア提供を行う際,医療者はしばしば「難しい状況だ」と感じる場面に遭遇する.医療者は,いったい何について「難しい」と感じているのだろうか? それは端的にいうのなら「意思決定が困難」ということだと筆者は理解している.すなわち,「心不全が悪化しつつあるこの患者さんに対して利尿薬を増量するという意思決定は,果たしてよいことなのだろうか?」という問いが立つ状況を医療者は「難しい状況」と感じているのだ.
1. なぜMultimorbidity診療において,意思決定ジレンマが発生するのか?
では,なぜ医療者はMultimorbidityの状況にある患者を前に「意思決定が困難」と感じるのだろうか? そこには,シンプルな医学的問題に対して,その解決に向けた意思決定を行うアプローチではうまくいかない問題が複数立ち現れるからである.
1「あちらが立てばこちらが立たず」という特性から生じる問題
1つは,Multimorbidityの状況の意思決定には「あちらが立てばこちらが立たず」が付き物だという特性によって生じる問題である.例えば,慢性心不全の患者に対して利尿薬を処方するということは,医療者の目からは異論をはさみにくいクリアな決断のようにみえる.しかしながら,歩行が困難かつ食事摂取量が安定しない独居の慢性心不全の患者に対して利尿薬を処方するという行いは,心不全状態が改善するという健康上の利益とは別に,患者に対して別の不利益を及ぼす可能性がある.その処方によって,患者は尿意のために夜間何度も目覚めるようになるかもしれない.また,夜トイレに行く途中に転倒し,骨折する危険が増すかもしれない.健康な生活の支援という広いカテゴリーにおいて,「心臓をよくする」という閉じた視座から期待される利益のみを希求する決断は,Multimorbidityの状況においてはうまくいかない.
2ある特定の疾患に対して推奨されるアプローチへの健康利益が比較的小さい
2つ目の問題は,ある特定の疾患に対して推奨されるアプローチによって患者にもたらされる健康利益がMultimorbidityの状況においては比較的小さい,あるいはほとんどないという特性によって生じる.例えば,一般的に脳梗塞後のリハビリテーションがもたらす健康への利益が小さくないことは周知の事実として存在するが,もともと強い低栄養/サルコペニアがある人が脳梗塞を発症した場合,それがない人への介入に比較してリハビリテーション介入がもたらす健康利益には大きな限界があるだろう.同様に,米寿を過ぎ,身体脆弱性のために要介護状態にある人のHbA1cが8.5%であったとき,その人に血糖降下薬を処方することや,厳しい食事制限を指示することによって当事者が得る健康上の利益は,おそらく自立した生活を送っている67歳の人が同じような状況になった場合への医学的介入によって得られる健康利益よりもずっと小さそうにみえる.長い臨床経験を積んだ医療者は,今までの経験からその効果や効率の差を感じ,そこで「この方に厳しい食事制限を指導することは,果たして適切なことなのだろうか?」と自問するであろう.しかしながら,文献上のエビデンスや診療ガイドラインで提示されている医学的推奨のアプローチにおいては,それらの効果差分は可視化されないことが多い.
3健康アウトカムが患者に対して不利益を与えるかもしれないというジレンマ
3つ目は,2つ目の特性の対比として立ち現れる「医学的な視点での健康アウトカムを希求する決断が,患者の人生にとって大切なアウトカムにむしろ不利益を与えるかもしれない」という問いがもたらすジレンマである(図).先述の「この方に厳しい食事制限を指導することは,果たして適切なことなのだろうか?」という問いは,厳しい血糖値のコントロールが,単に患者に対する余命や将来の糖尿病合併症発生というアウトカムに対して無益なのではないか,という問いだけではない.むしろ,その介入によって,医療サービスが患者の人生の輝きを奪ってしまう可能性が少なくない,あるいは,患者の人間としての尊厳に好ましくない侵襲を加えてしまうかもしれないという仮説が医療者の頭のなかに立ち上がることから生まれる問いなのだ.
その意味では,Multimorbidityの状況にある患者を前に「難しい」という感覚をもった医療者は,その感覚を感じることができる能力を少なからず有しているということがいえる.ある臨床上の意思決定が,特定の健康課題における医学的最善となるものであったとしても,それはしばしば患者にとっての最善とは異なるということに彼女/彼は気がついているのだ.その気づきが前提としてあるうえで,次のステップとして,直面している意思決定ジレンマを言語化し,分析し,患者自身や家族など患者関係者との対話を行いながら「患者にとって最善となる決断は何か? それをどう行うべきか?」について思考することが可能になる.その思考こそが「倫理的に考えること」であるといってもよいであろう.
2. 医師の思考パターンを特徴づける「客観的に正しいことを行う」という規範
1医師に刷り込まれている規範とは
一方,総じて白衣を着て働く医療専門職,とりわけ医師や薬剤師は,意思決定ジレンマを前にして「倫理的に考えること」が得意ではない.そして,そもそもそこに立ち現れる意思決定ジレンマを「ジレンマ」として気づくことが得意ではない.その理由は,医師や薬剤師の専門性と大きく関係している.大雑把に表現するのならば,現代医学は「事実=価値」と認識することで発達してきた学問であり,異なる人々がある1つの事実を前にしたとき,皆が同じように認識し,同じように価値づけすることを前提とする知識体系を大切にしているという特性をもっているからである.そのような知識体系のなかでは,ある特定の問題について関係者全員が「正解」として認識できる選択が存在する.実際,医学生や研修医を対象として行われる事例カンファレンスは,臨床上の問題にただ1つの正解が存在するという前提で進行していく.医師の思考パターンには「客観的に正しいことを行うことが最善である」という規範が刷り込まれているといってよいだろう1).
2医師の思考パターンの二面性
臨床上の種々の問題に対して医学的な解釈や価値づけを行う際に,先述の規範はきわめて重要なものであり,そのような規範のなかで目の前の事象を認識したり分析したりするからこそ,医師は医師の専門性を発揮することができる.一方,そのような文化的特性をもっているからこそ,医師たちが「医学的な最善」について専門性の高いジャッジを行った後に「患者にとっての最善」を考えるとき,どうしても先述のような医師の思考パターンは目の前に立ち現れているジレンマに対する感受性を鈍くさせてしまうし,ジレンマを感じたとしても「あちらが立てばこちらが立たず」や,「大切なものは人によって異なる」という理解のなかで,複雑に絡み合う価値を複雑なまま取り扱うことを避けがちになるという側面ももっている.
3. 「お看取り方針で」と医師チームで合意したときにこぼれ落ちているもの
最近,急性期病院の病棟において,高齢や慢性の身体脆弱性,あるいはフレイル状態も含めた多数の下降期慢性疾患をもった状況下で生命の危機にある患者の診療選択肢を検討する際,しばしば聞かれる言葉に「お看取りの方針で」という言葉がある.一見この言葉からは,三途の川を尊厳をもって渡ろうとしている患者の人格を尊重し,何でもかんでも救命と回復に価値をおこうとする古いタイプの価値観ではない視座の印象を受けるかもしれない.ただ,筆者自身は自分がこの言葉を発しそうになったときには十分に注意すべきだと戒めている.
筆者は臨床上の意思決定について検討していくうえで,「大まかな方針」について意思決定に関与する関係者が合意していることは,とても大切なことだと理解している.「大まかな方針」があったうえで,患者の望み,そして患者にとっての最善に最も近いであろう選択が行われるというプロセスは合理的だと考える.しかしながら,急性期病院の病棟でしばしば聞かれる「お看取り方針で」はその「大まかな方針」であるとは思えないことが筆者にとっては多い.極端にいうなら,この「お看取り方針で」という言葉には,尊厳をもって天寿を全うする患者の人生プロセスを積極的に手伝っていくというニュアンスをあまり感じとることができない.むしろ,立ちはだかる意思決定ジレンマを前に,救命や回復をゴールとする医学的介入の無益性について医師同士で合意したことを「お看取り方針で」という体のよい言葉に置き換えている気がするのだ.その意味では,やり場のないもやもや感とともに効果が芳しくないアグレッシブな介入を続けている状態の方が「お看取り方針で」とシンプルに舵を切ってしまっている状況よりも,医療者の思考のなかに倫理的な思考が残っているのかもしれない.医学的無益性を医学の専門家が受け入れた表現としての「お看取り方針で」という合意によってこぼれ落ちていくもの,それは,患者にとっての最善を達成するうえで,意思決定とケアにかかわる者たちが,困惑しながらそれぞれの価値について問いかけ,そのなかで謙虚さをもってそれぞれがもつ異なる認識と希望をすり合わせていこうとする努力のプロセスであると筆者は考える.
4. 大きな倫理ジレンマをもつ臨床上の意思決定にどう対処するか?
Multimorbidityの状況にある患者の意思決定にかかわり,その関与のしかたを「難しい」と感じたとき,どのような対処をしていけばよいだろうか? 最後に,特に若い医師を対象に,筆者からの一般的な推奨を以下に列記したい(表).
1「何を叶えようとしているのか?」を中心に考える
意思決定ジレンマの場においてしばしばみられることは,医療者が医療プロセスの妥当性に注意が向きすぎてしまい,そもそも患者の何を叶えようとしているのかということについて注意が向かなくなっている,という状況である.ジレンマのある状況に気づいたときには,常に「ケアチームは患者の何を叶えたいのか,どのような状況に患者があることを支援したいのか?」という問いに立ち戻るとよい.
2上級医以外の病院スタッフに相談する
ある決断に関与し,その決断に対する認識や価値を推し量る際,医師のカルチャーは一様に偏った考えをもちがちであることは前述(2.医師の思考パターンを特徴づける「客観的に正しいことを行う」という規範参照)した.自分が抱えるジレンマを言語化し,意思決定の土俵にしっかりとのせる際には,ソーシャルワーカーなどむしろ「白衣の文化」からなるべく遠い位置で仕事をしているスタッフからの意見は貴重である.
3意思決定者は自分(たち)ではないことを自覚する
Multimorbidity診療においては,患者自身が決断の主体となって意思決定を運んでいくことが簡単ではないことが多い.そのような状況下で,医療者はとても重要な意思決定の関与者ではあるが,意思決定者そのものではない.意思決定の主体は常に患者自身にあり,医療者も患者家族も患者自身の意向を推し量り,患者の意思決定を支える者たちであるという自覚を常にもつべきであろう.その意味では,医療者は意思決定においてあまり家族と話し過ぎない方がよい.患者本人をよそにして医療者と家族同士で話せば話すほど,その意思決定は患者のものから離れていくことに配慮するべきであろう.
4決断の根拠としている言葉の意味を捉えなおす
医学的根拠の意味や価値についても謙虚な認識をすることはもちろんだが,その他の決断根拠を査定する際に,意思決定の関係者間でその根拠として浮かび上がる言葉の意味に少なくない認識の違いがあることを特に医師は自覚するべきであろう.例えば「患者の家族が患者に対してできる限りのことをしてほしいと言っている」という言葉を耳にしたとき,医師が考えることは「バイタルサインを保つためのできる限りのこと」であることが多い.しかしながら「できる限りのこと」は「つらい思いをしないためのできる限りのこと」かもしれないし「尊厳が立派に保たれるためのできる限りのこと」かもしれない.
5苦痛の緩和は,あらゆる健康問題の決断における主目的の1つであることを忘れない
特に人生の最終段階においては「長く生きること」や「元気を回復すること」あるいは「将来の重大な健康イベントを予防すること」は,医療/ケアを行ううえでの主目的には必ずしもならない.むしろ,尊厳をもって当事者が人生の幕引きを行うことを支援することが主目的となることも多い.一方,仏陀のような特殊な人を除いて,当事者が抱える苦痛が緩和されることは,常にあらゆる健康問題の決断における主目的の1つである.意思決定ジレンマの状況下では,特にそのことについて医療者は気を向ける義務があるであろう2).
おわりに
本稿で筆者が伝えたかったメッセージは,「若い医師はある決断事象を前にして,何かしらの悩ましさや困難さ,歯がゆさ,吹っ切れなさを感じたのなら,その感情を大切にし,しっかりとその感情に向き合ってほしい」ということである.反対に,もし患者の決断に対する自分のかかわり方に対して特に何の疑問や困難さを感じないようだとしたら,その状況においてその医師はみるべきものをみていない,かかわるべきことにかかわろうとしていないかもしれないと筆者は考える.
文献・参考文献
プロフィール
尾藤誠司(Seiji Bito)
国立病院機構東京医療センター総合内科
尾藤がVo.とGを担当するロックバンド「ハロペリドールズ」の楽曲はYouTubeで検索してください.WEBサイト「うまくいかないからだとこころ」もぜひチェックしてください.