医学 歴史と未来

医学 歴史と未来

  • 井村裕夫/著
  • 2020年12月18日発行
  • 四六判
  • 192ページ
  • ISBN 978-4-7581-2111-8
  • 3,300(本体3,000円+税)
  • 在庫:あり
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第2部 医学の現在 ――新しい医学の登場

第2章 ゲノム情報に基づく医学 そしてprecision medicineへ

新しい千年紀(ミレニアム)の科学政策

これより少し前の一九九九年、新しいミレニアムを目前に控えて、小渕恵三首相からミレニアム・プロジェクトについて、当時の総理府の科学技術会議に相談があった。新しいミレニアムが近づくなかで、小渕-クリントン会談で科学技術に関する日米間のミレニアム対話がはじまったばかりであって、私はその日本側の代表を務めていた。小渕総理は、この機会に日本の科学技術をいっそう推進することを目的として、高齢化、情報化、環境対応の三本の柱からなるプロジェクトを計画されたのである。私は高齢化対応、すなわち医学・生命科学の分野を担当することとなった(3)(4)(5)。すでに科学技術会議の内部でかなり議論していたところもあったので、この機会にゲノム医学、発生・再生科学、植物科学、バイオリソースの四研究センターをつくることを提案し、それらが理化学研究所の組織のなかで実現することとなった。

またゲノム研究が全世界で活発化していることを受け、(1)ヒトゲノム多様性プロジェクト、(2)疾患遺伝子プロジェクト、(3)バイオインフォーマティクス・プロジェクト、(4)発生・分化・再生プロジェクト、(5)イネ・ゲノムプロジェクトなどのプロジェクト研究を発足させた。先に述べた国際ヒトゲノムプロジェクトがかなり終わりに近づいてきたなかで、次はゲノムの個人差、人種差や、身長、皮膚の色などの身体の表現型(phenotype)や疾患がゲノムとどう関係しているかの解明が、重要な課題となると考えたからである。

このうちゲノムの多様性、すなわち個人差の存在はすでにある程度知られており、特に人種間の相違が問題となっていた。間もなくアフリカ系、ヨーロッパ系、アジア系の人々のゲノムにおけるハプロタイプ、すなわちゲノムの構成を明らかにしようとするHapMapプロジェクトがはじまり、理化学研究所が参加することとなった。そこでミレニアム・プロジェクトでは、ヒトゲノムについては疾患遺伝子プロジェクトに力を入れることとした。

図2-2

当時すでに、ヒトゲノムには図2-2に示すように多様なバリアント(多型)があることが知られていた。それらは、ある一つの塩基、例えばグアニン(G)がシトシン(C)に置換された一塩基多型(SNP)、塩基の欠失または挿入、五百ヌクレオチド以上のコピー数多型、一定数のヌクレオチドが逆に挿入された逆位、他の部位に転座した転位などである(図2-2)。このうち全ゲノムにわたってきわめて多数存在するSNPを指標として病気との関連を明らかにしようとするのが、全ゲノム関連解析(genome-wide association study、以下、GWAS)である。すなわち病気のある人とない人を多数集めて、ある特定のSNPの頻度に相違があれば、その部位または近傍に病気と関係した遺伝子が存在するという発想から開発された方法である(6)(7)

ミレニアム・プロジェクトでは、GWASを行うべく五大疾患(アルツハイマー型認知症、糖尿病、高血圧、気管支喘息、がん)を取り上げ、研究班を組織して、当時利用可能であったいわゆるインベーダー法を用いて、疾患に関連するSNPの研究を行った。しかしこの方法は後に登場したマイクロアレイ法に比べて煩雑で、多くのSNPを用いて研究することができなかったこと、当時はゲノム配列も決まっていなかったこともあって適切なSNPの選択が難しく、みるべき成果をあげることができなかった。また日本では共同研究体制を組んで、多数例を集めて研究することが意外に難しいことも経験した。

その後、マイクロアレイ技術が登場し、きわめて多くのSNPを用いたGWASが可能となって、人の形質や疾患とSNPの関係に関して多くの論文が報告されるようになってきたが、まだ多因子疾患の遺伝素因の全貌は明らかになっていない(8)。この点については、次章に述べることとする。

ミレニアム・プロジェクトが日本の科学に何をもたらしたか、十分な成果が上げられなかった面があるが、その理由は何か、考えておかねばならない。私は二〇〇四年、任期満了とともに総合科学技術会議を去ったので、その後、これについてどの程度議論がされたか定かではない。ただ一般に言えることは、日本の科学技術政策では性急に結果を求め、成果が不十分であるとすぐに予算を切る傾向がある。もとより科学技術予算に限界があるので、やむを得ない面があるが、重要と考えられる研究プロジェクトはもう少し息長く支援し、研究に立ちはだかる壁を粘り強く打ち破る努力をしていく必要があると考える。視野の広い研究者が、もっと政策について助言すべきであろう。

文 献

  • (3)「ミレニアムプロジェクト(新しい千年紀プロジェクト)について」(首相官邸、https://www.kantei.go.jp/jp/mille/
  • (4)『21世紀を支える科学と教育』井村裕夫著、日本経済新聞社、二〇〇五年
  • (5)井村裕夫:ミレニアムプロジェクトから始まった医学の重要課題。ここまで来たミレニアム先端医療(第41回シスメックス学術セミナー)、二〇一八年
  • (6)Oliver M, et al:High throughput genotyping of single nucleotide polymorphism using new biplex invasive technology. Nucleic Acid Res, 30:e53, 2002
  • (7)Ozaki K, Tanaka K:Genome-wide association study to identify single nucleotide polymorphisms conferring risk of myocardial infarction. Methods Mol Med, 128:173-180, 2006
  • (8)Monalio TA, et al:Finding the missing heritability of complex disease. Nature, 461:747-753, 2009
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