第0章 生命科学のおはなし
生命科学って何?
それでは、生命科学のお話をはじめたいと思います。普通の生物学のお話とはちがって、私たちにとってもっと身近な人間の体のこと、環境のことを問題にします。そこで、生きていくうえで知っておきたい生命科学の考え方を少し学んでいただきたいと思います。生命科学と進化からはじまって、遺伝の話、DNA鑑定、科学データの見方、再生医療、環境、ゲノム編集食品まで、いろんなお話をします。そのイントロダクションとして、生物学と生命科学がどうちがうか、お話ししましょう。
生物学は、動物とか植物、微生物を対象とした学問です。その生物がどういう構造をしているか、どういう機能をもっているか、さらに生物だけではなくて、それをつくっている細胞がどうなっているかというお話がメインです。加えて、生物の進化とか私たちの身のまわりの環境の話、生態学が話題になっています。ところが、大学の生命科学は生物学とは少しちがって、人間中心で医療のお話がメインになってきます。なぜかというと、私たちは人間だから、やっぱり人間の体が一番大事なわけで、それについて知る必要があるからです。今回のお話しのキモ、最新の科学であるDNA を使った科学をぜひ皆さんに知っていただきたいと思います。DNA技術によって、細かいメカニズム、例えば病気のメカニズムとか、生物がなぜ生き残っているのか、そういうメカニズムがだんだんわかってきました。難しそうと思うかもしれませんが、決して難しくありません。この部分をしっかり頭に入れておいて欲しいので、遺伝子、DNA技術をメインにしていろんなお話に入っていきたいと思います。
そして、私たちの生活には生命倫理が重要になってきています。生命倫理も生命科学の一部です。今話題になっている新型コロナウイルスや臓器移植など、いろんなところで生命倫理が問題になっていますよね。だから、生命科学を勉強することは非常に大事です。
そこで新型コロナウイルスを題材に、皆さんこんなこと知ってるかな?っていう知識のお話、そして生命科学の考え方についてお話ししていきたいと思います。
ウイルスや細菌がいるところ
早速ですが、一つ問題を出してみましょう。
はい、すぐ答えられますか? 一番きたないところです。これどうやって調べるかというと、スメアといって、なにかで机の上を拭くわけです。拭いたものにどれくらい細菌がついているか調べます。そうすると、机の上がどれだけきたないかわかるわけです。これは十年くらい前にいろいろと調べられていて、そのデータから普段私たちがペタペタ触っているところでも結構きれいなところときたないところがあることがわかってきたんです。
はい、答えです(図1)。一般のかぜウイルスをライノウイルスというんですけれども、そのウイルスがどこにいるかを調べています。小児科の待合室、特に子どもが使うおもちゃに非常に多いことがわかりました。今、病院が危ないと言われているのは正しいことがわかりますね。次に、フィットネスセンター。これも新型コロナウイルスで話題になりました。フィットネスセンターでは、いろんな機械をいろんな人が使いますが、使った後あまり洗ったりしないわけですね。それで細菌がたくさんつきます。例えば、バーベルやダンベル、フィットネスバイクは、どれも手でつかんで使うわけで、その手でつかむようなところに細菌がたくさんいることがわかっています。次に、エレベーターのボタン。後で出てくる
かぜをひくのはどうして?
かぜってなかなか治らないですよね。かぜがどんな病原体から起こるか知っていますか? ライノウイルスが全体の三〇〜四〇%くらいを占めています(表1)。インフルエンザウイルスが五〜一五%くらいで、それに非常によく似たパラインフルエンザウイルスっていうのも一五〜二〇%くらいいることがわかっています。その他には、四番目に書いてある今話題のコロナウイルスがあります。コロナウイルスは、インフルエンザと同じようにかぜを引き起こす病原体の一つで、全体の一割を占めることが前々からわかっています。その他にもいろんな病原体があることがわかりますね。
なぜコロナウイルスという名前かご存知でしょうか? ウイルス表面の突起が王冠(ギリシャ語でコロナ)や太陽の周りのコロナのように見えるから、コロナウイルスと名前がついたんです。
体調が悪くなるのはなぜ?
コロナウイルスでは、せきが出て肺炎になることは皆さんご存知だと思いますが、
ここに四つの可能性をあげてみます。どれが正しいかわかりますか?
- ① ウイルスの遺伝子から毒素がつくられる(ウイルス自体に毒性がある)
- ② ウイルスが人体に毒素をつくらせる(ウイルスに病原性がある)
- ③ ウイルスを防御するために人体がウイルス増殖抑制物質をつくる
- ④ ウイルスが人体に入った途端に強毒性ウイルスに変わる
一見、①とか②のウイルス自身が原因のように感じます。でも、正解は③です。え?と思うかもしれませんね。ウイルスを防御するために人体がウイルスが増殖しないような物質をつくります。それが原因で熱が出たりするんです。
免疫力はもともと上がっている
これについて、もう少し説明しますと、ウイルスに感染すると、人体がサイトカインという物質を放出します。サイトカインは、発熱や悪寒、筋肉痛などの副作用を起こします。つまり、体を防御するために人間が出すこの物質の防御が非常に強くなってしまって、その副作用として炎症を起こしたりするわけです。かぜの症状が出ているときは必要以上に免疫力が上がってるんですね。だから、実は免疫力を抑えることが大事なんです。
よく免疫力が上がる食事術とか超免疫力ってみかけますけれども、かぜをひいているときは過剰に免疫力上げちゃいけないんですね。免疫力はもともと上がってるんです。だからこれ書き方が悪くて、本当は、免疫力ではなくて抵抗力を上げると書かなきゃいけないですね。抵抗力と書けば、外敵に立ち向かう力と正しい意味になります。だから免疫力を上げるっていうとちょっとちがうんです。そういうことも知っていてくださいね。
何回手を洗ったらいいの?
そこで、いろんなきたないものが身のまわりいっぱいあるとわかりました。消毒しなさいってよく言われます。これ大事なことですね。石けんの手洗いでもOKです。そうすると、石けんで手を洗うと、どれくらいバイキンが落ちるかというデータが欲しいと思いませんか?
トイレのことちょっとお話しましょうね。細菌が多いところ、どこだと思いますか? パッと見には、ドアノブとかトイレのまわりに多そうな気がしますね。よく聞くと、便座の裏あたり、ここあまり掃除しないのできたないんじゃないかと皆さん言われるんですけども、あまり皆さんが気がつかないところにきたないところがあるんです。それは水を流すところ、取っ手なんです。なぜですか? これは皆さん、トイレが終わって紙で体を拭くんですけれども、拭いてすぐに手を洗いますか? 洗えませんよね。まず水を流すでしょう? だからきたない手でそのまま触る場所である取っ手には、細菌がたくさんいるというのがわかるかと思います。
それを調べたデータがあります。トイレの後どれくらい手に細菌がいるか、こういうことを研究している人がいるんですね。トイレをすると、ウイルスとか細菌が約百万個手につくと考えてください。そうすると、手を洗うとどれくらい減るかというと、流水で一五秒洗うと百分の一で一万個くらいになります。その後、ハンドソープで手を洗ってもう一回流水で流すと、これもまた数百個となってかなり減ります。もう一回ハンドソープで洗って手をきれいにすると、数個になります。このデータを見たら、手を洗わないといけないなということがわかると思うんですけれども、一回洗えばいいのか、複数回洗った方がいいのか、ハンドソープは使った方がいいのか、気になりますよね。
大事なことはここからなんですよ。元気な人なら細菌の個数はあまり関係なくて、その人の体力が大事なんです。ウイルスって怖そうに見えますけれども、体力があり抵抗力があれば細菌がいくら入ってきても大丈夫なんですね。例えば、海水一ミリリットル中にウイルスは一千万個ぐらいいるんです。つまり、ウイルスなんてどこにでもいるんですね。そういうことを知っていると、やっぱりハンドソープで一回手を洗うくらいでいいのかなということがわかります。細菌を数個にする必要はないわけです。
マスクは効果的?
最近よくテレビでもご覧になると思うんですけれども、新型コロナウイルスは飛沫感染します。飛沫がどれくらい飛ぶかっていうと、二メートル近く飛ぶんじゃないかと言われているんですね。だからやっぱりマスクをするのは、それだけ人にうつさない利点があるわけです。
だからマスクを装着してる人、いいですね? マスクするのはいいんだけど、マスクの表面に触っちゃだめですよ。表面にウイルスがついているわけですから。これはぜひ守っていただきたいと思います。
感染しやすいところ
昔から言われているんですけれども、感染しやすいところはどこかというと、やっぱり電車とか飛行機の中です。空気の入れ替えがないから危ないんです。昔、
新型コロナウイルス
昔はやった同じコロナウイルス感染症のSARSやMERSはもっと死亡率が高くて怖いんですけれども、これと今の新型コロナウイルスがどれくらいちがうかというのは、だいたいのデータが表2に書いてあります。これを見ておわかりのように、普通の季節性インフルエンザだったら死亡率低いですよね。ところが新型コロナウイルスは約二%という死亡率になっています。二〇〇二年にはやったSARSは、一〇%ぐらいの死亡率です。二〇一二年にはやったMERSは怖くて、三四・五%も死亡率があります。これに比べて二%は低いです。だけど、季節性インフルエンザよりも圧倒的に怖いということがわかります。
忽那賢志医師によると、二〇二〇年一二月末の八〇歳以上の死亡率は一二・〇%、七〇代では四・八%、六〇代は一・四%と、お年寄りの死亡率が高いことがわかります。そういう意味では、お年寄りに感染させるのは非常に危ないということになります。今回の結果を見ると、感染力強そうですね。なるべく人と会って話をしないというのが正解になります。
グラフからわかること
図2はあるものの人口十万人当たりの死亡数をあらわしたグラフです。これは何の死亡率かというのを皆さんに考えて欲しいと思います。こういうデータを見て、これなんでかな?と考えることが大事なんですね。生命科学では、リアルタイムで今何が起こっているかをデータから読みとることが非常に重要になります。
普通、日本とアメリカを比べると日本の方が衛生上きれいなので死亡率が低いはずなのに、日本の方が高いって変だと思いませんか? これがなぜかということをちょっと考えるだけでおもしろいことがわかってきます。
ギザギザであることがわかります。死亡率が一年で上がったり下がったりしているわけです。もう一つは、日本の死亡率は右肩上がりになっていてアメリカは一定です。この二つがわかりました。
データを読んで何がこういうことを起こしたんだろうかって考えることが非常に大事です。ギザギザになる原因は何ですか? わかりますね、これ季節性のものなんです。夏と冬で死亡率がちがっているからギザギザなんです。冬の方が高くて、二〜五年間隔でピークがあるということは、インフルエンザかな?ということがなんとなくわかりますよね。
でも、それにしても日本の方がだんだん死亡率が上がってくるのは、変じゃないですか? アメリカは一定です。
ここがおもしろいところです。もう一度グラフをよく見てくださいね。死亡率が高いのが冬で低いのが夏ですね。だけど日本は夏の死亡率も上がっているわけです。インフルエンザだったら冬かかりますよね。それなのに夏でも死亡率が上がっています。なぜでしょうね? 日本で一九七三〜九三年にかけて、死亡率が上がってくるのはなぜですか?という質問です。原因わかりますか?
はい、日米を比較しましょう。一九九〇年代のインフルエンザによる死亡率は圧倒的に日本の方が高く、夏のベースラインも高くなっています。その理由として考えられるのは、一九七〇~九〇年代にかけて、日本の人口が増えたんじゃないかということです。死亡率が上がったということは、人口が増えてお年寄りの数が多くなったかもしれないわけですね。こういう仮説があると、やっぱり仮説を証明しなきゃいけないので調べてみます。そうしますと、一九七〇~九〇年の総人口は、日本は約二〇%増加していました。アメリカも同じくらいです。六十五歳以上のお年寄りはどれくらいになったかというと、日本は七百万→千五百万で八百万人、アメリカは二千万人→三千百万人で千百万人増えました。割合はだいたい同じです。そういうことを考えると、これ人口のせいじゃないなということがわかります。
じゃあ何が原因なんでしょうね? 図3の折れ線グラフは、日本のインフルエンザの死亡率で、棒グラフがワクチンの定期接種量です。小学生のワクチンの定期接種がずっと起こっていたんですけれども、①で下がっているわけです。何が起こったかというと、ワクチンは自分次第ですよ、打つのも打たないのもあなたが選んでくださいねっていうふうになったんです。今までは必ず打たなきゃいけなかったのに、①からは個人の自発的意思になりました。だから減ってきたんですね。さらに②になると、予防接種の対象からインフルエンザワクチンが除外されます。そうすると見てわかるように、ほとんどゼロになって誰もワクチンを打たなくなってきたわけです。そうしてインフルエンザによる死亡率が上がってきたんじゃないかということがわかります。つまり、ワクチン接種が強制ではなくなったために、インフルエンザの死亡率が上がりはじめたんじゃないかということです。やっぱりワクチンを打つことが非常に大事なんじゃないかって予測されるわけです。
今の新型コロナウイルスとちがうんですけれども、このインフルエンザのときに何がわかったかというと、病気にかかる人の数、すなわち罹患率です(図4)。罹患率は年齢が左から右に行くほど大きくなってますから、圧倒的に子どもの方が多いです。大人になるとあまり変わらないですね。つまりインフルエンザは子どもがよくかかるんです。ところが死亡率は?というと、子どもの死亡率は低いけど、お年寄りの死亡率が高いことがわかります。つまり、インフルエンザにかかるのは子どもなんですけれども、亡くなるのはおじいさん、おばあさんです。だから、学童期のワクチン接種がやっぱり大事なんじゃないか、ワクチン接種が社会全体のウイルス総量を減らすのに役に立つんじゃないかということが、インフルエンザの経験からわかってきました。ワクチンについては第4章でもお話しします。
ここまでがイントロダクションになります。こういうふうにデータを考えて私たちも生活をしていかなきゃいけない、その例として、新型コロナウイルスやインフルエンザワクチンの話をしました。このように、生命科学は私たちの健康に非常によくかかわっています。やっぱりある程度の知識は、皆さんもっていないといけないわけです。
- 生命科学では、人間中心で医療のお話がメインになってきます。
- 新型コロナウイルスを例に、生命科学の考え方を紹介しました。データから何が起こっているかを読み解くことができたでしょうか?