第5章 脳科学研究のいま
2脳のシワはどうやってできる?
そもそもなぜ脳にシワがある?
ヒトの脳には多数のシワがありますね。このシワは、大きな脳を限られた容積の頭蓋に収めるために必要です。実際、ヒトの大脳皮質を広げると千六百~二千平方センチメートルにもなることがわかっています。これは、頭蓋骨の内側の表面積の約三倍です。しかも、第1章でお話したように、大脳のシワはランダムに生じているのではありません。では、いったい、どのようにして脳にシワができるのでしょう?
マウスの脳にはシワがない!
そもそも、いろいろな哺乳類の種を見渡すと、大脳表面にシワのある動物とそうでない動物がいます(図5-3)。例えば、霊長類や鯨類などの脳にはシワがありますが、マウスやラット、モルモットの脳にはシワはありません。基本的には、大きな脳をもち、高度な機能をもつ動物の方が、シワをもつ傾向はあります。でも、小型霊長類のコモンマーモセットの脳にはシワがなく、一方、イタチ科のフェレットの脳にはシワがあります。
ヒトでは、「
LIS1という遺伝子がコードしていたのは、「血小板活性化因子アセチルヒドロラーゼ(PAF-AH)」という名前の酵素タンパク質のβサブユニットの部分でした(このため、ヒトのLIS1という遺伝子はPAFAH1B1という名前でよばれることもあります)。血小板に関係する分子が本当に脳に関係するのでしょうか?でも、この分子機能がわかれば、脳のシワの仕組みがわかるかも?そこで、研究者たちはマウスを用いて検証してみることにしました。
一九九八年にアメリカの国立衛生研究所に留学中だった広常真治(現大阪公立大学教授)らは、マウスのPafah1b1(※)遺伝子に人工的に変異を入れた遺伝子改変動物を作製しました。二つあるPafah1b1遺伝子が両方とも変異しているマウス(ホモ接合個体)では、胚発生の初期に致死となりましたが、Pafah1b1遺伝子の片方のみ変異をもつマウスでは、ニューロンの移動が異常となり、大脳皮質、海馬、嗅球などに組織構築の異常が生じました。つまり、マウスにおいてPafah1b1遺伝子の異常が脳構築の異常を引き起こすことが証明されたのです。
でも、そもそもマウスは「滑脳症」状態であることが普通です。逆に、マウスの脳にシワを生じさせることができれば、そのメカニズムは脳のシワを理解する手立てになるかもしれません!
そこで、ドイツのマックス・プランク分子細胞生物学・遺伝学研究所所長のウィーランド・フットナーのグループは、同じくマックス・プランク進化人類学研究所所長のスヴァンテ・ペーボとの共同研究を開始しました。まず、ヒトの大脳皮質形成過程において第3章でお話した神経幹細胞で働き、マウスでは働いていない遺伝子を探求します。そのような五六個のヒト大脳皮質神経幹細胞“特異的”遺伝子の一つに、ARHGAP11Bという名前の遺伝子があり、この遺伝子に着目しました。この遺伝子は細胞内シグナル伝達系にかかわるタンパク質をコードしています。
このARHGAP11B遺伝子は、多くの動物種がもっているARHGAP11A遺伝子が、進化の過程で部分的に“重複”することによって生じたと考えられます。約五百万年前、霊長類のなかでチンパンジーに至る系統とヒトに至る系統が分岐した後に、この遺伝子重複は起こったと推測され、さらに一五〇~五〇万年前までの間に、一箇所の変異を生じていたので、ヒト特異的であると考えられたのです。
フットナーたちはマウスの発生途中の脳原基に、この遺伝子を導入してみることにしました。「子宮内電気