忙しい人のための公衆衛生〜「なぜ?」から学ぶ保健・福祉・健康・感染対策

忙しい人のための公衆衛生

「なぜ?」から学ぶ保健・福祉・健康・感染対策

  • 平井康仁/著
  • 2021年03月24日発行
  • A5判
  • 206ページ
  • ISBN 978-4-7581-2368-6
  • 2,970(本体2,700円+税)
  • 在庫:あり
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公衆衛生が重要な理由

皆さんの思い浮かべる公衆衛生といえばどんなものでしょうか.臨床には役立たない医学や看護の科目,法律の勉強,計算問題,なぜか国家試験でたくさん出題される,こういったものではないでしょうか.
この本を読んでいる多くの読者は,臨床に出る気持ちで今勉強しているのだと思います.
それではなぜ,臨床とは無関係(?)の公衆衛生を学ばなければならないのでしょうか.
序章では,公衆衛生を学ぶことがどんな役に立つのか,その重要性や考え方を感覚として理解しましょう.

なぜ,臨床とは無関係(?)の公衆衛生を学ばなければならないのでしょうか.それは臨床と公衆衛生は補完しあう関係だからです.それがわかる例として,John Snow(図1)の井戸の話を参考にしてみましょう.

そして,これが理解できると,2020年現在,流行している新型コロナウイルス感染症の対策として,何がどのように行われているのかも徐々に理解できるようになっていきます.

John Snowの功績

19世紀半ば,イギリスで水溶性の下痢と嘔吐を主訴とする致死的疾患である“ある病気”が大流行しました.

その当時の医学では,その“ある病気”の原因が何であるかわからず,対症療法を行うことが医療の限界でした.しかしながらJohn Snowは,その疾患の患者の多くが特定の給水地区を利用していることを突き止め,飲料水中の何かが原因であると推定し,その水道の使用を中止させました.その結果,“ある病気”の原因が何であるかわからなかったにもかかわらず,その後の大規模感染を防ぐことができたのです.

その後の研究で,その“ある病気”の原因がコレラ菌であることと治療方法が判明しました.この例でいえば,医学的処置を施して患者を治すのが臨床,コレラにならないように予防・対策するのが公衆衛生といえるでしょう.

病気への対策には,臨床も公衆衛生もどちらかが大事ではないのです.どちらも大事なのです.そして,この両方が存在しない限り,国全体で病気を減らすことはできません.

  • John Snowは病気の原因を突き止めることなく,患者に共通する要因を突き止めることで,有効な対策を発見し,疾患を予防することに成功した

公衆衛生局の英断

では,ここで考えてみてください.「誰が水道の使用を中止させた」のでしょうか.John Snowはいってみればただの1人の医師です.水道の使用を中止させる権限などもっていません.誰が最終的な判断をしたのかといえば,公衆衛生局が行ったのです.法律ふうな言い方をすれば「John Snowの助言により,公衆衛生局が決定した」となるのでしょう.ここで皆さんは「なんだ,やっぱりJohn Snowがやったんじゃないか」と思われるかもしれませんが,それは全く違います.決断をしたのは公衆衛生局で,最終的な責任は公衆衛生局がとることになります.極端な話をすれば,公衆衛生局はJohn Snowの意見を無視し,水道の使用を中止させない権限ももっていたわけです.みる立場が異なれば,当時の公衆衛生局長こそが,「薄氷の上にたいへんな英断をしたんだ」と評価されるのでしょう.誤解を恐れず,大胆な言い方をしてしまえば,水道源を止めた結果,「感染症が収まらないどころか脱水症の患者が増えた」となれば当時の公衆衛生局長はクビになるか,左遷させられるか,いずれにしても責任をとらされたことでしょう.そのようなリスクを負ってまで公衆衛生局はその判断をした,ということは大英断であったといえます.

  • イギリスにおけるコレラの予防にはJohn Snowだけではなく,公衆衛生局の勇気ある決断も不可欠であった

医学と行政の連携

何が言いたいんだ,と思うかもしれません.ここで私が言いたいのは,地域や国において何らかの施策を行っているとき,その責任の主体のほとんどは行政であるということ です.

行政とは,その昔「社会」で学んだ,司法・立法・行政の1つですね.

どのようなものが行政にあたるかといえば,具体的には国や都道府県,内閣総理大臣や知事,厚生労働省などの省庁,また保健所などが行政にあてはまります.

ここで,「責任の主体」について具体的な例で考えてみましょう.例えば,2020年の新型コロナウイルス感染症のように未知の感染症が海外で猛威を振るった際に,「飛行機や船の往来を一切禁止すれば国内に感染が広がることはない」と医学的な内容について助言するのは医師や専門家の責務です(図2).では,最終的に飛行機や船の往来を一切禁止するとなった際に,誰が決定して,誰が責任をもつのかといえば,それは決して医師ではなく,行政の長たる内閣総理大臣が責任をもつことになります.最終決定権をもつ人が最後は責任をとることになるのです.

つまり,公衆衛生を学ぶということは,医学・公衆衛生学を背景とした行政のあり方を学ぶということにも近いのです.そして,その行政というのが,どのように機能しているのか,何を根拠に機能しているかを学ぶことがたいへん重要なの です.

この点については第2章で詳しく述べていきますが,公衆衛生に関連したさまざまなサービスは,「行政がよかれと思ってやっているものではない」,ということです.ここがよく勘違いされるところです.「母子保健はやったほうがいいよね」と思って都道府県や市区町村がやっているわけではありません.そこには明確な根拠があって実施しています.逆の言い方をすれば,明確な根拠がないことを行政が推し進めることは非常に難しいのです.第2章を読んでいただければ,国家試験によく出る「関連する法律は何か?」という問題の意味もわかってくると思います.

  • 公衆衛生においては行政が果たす役割が非常に大きい
  • そして,行政の果たすべき役割について明確な根拠がある

新型コロナウイルス感染症の対策とその根拠

1)専門家会議と対策本部

では,2020年現在大流行している新型コロナウイルス感染症の対策を例にとって考えてみましょう.一体,日本ではどのように対策がとられているのでしょうか.

John Snowの例と同じように考えてみましょう.当時の対策としては,John Snowが公衆衛生局に助言したのでしたね.ということは今,「誰か専門家」が「どこかの行政組織」に助言していると考えるのが自然でしょう.それぞれ何なのでしょうか.

まず「誰か専門家」とは誰でしょうか.皆さんは新聞やニュースで「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議(専門家会議)」という言葉を聞いたことがあるかと思います.これが,新型コロナ対策におけるJohn Snowです(図3).座長は国立感染症研究所所長で,構成員らも含めて専門家集団によって構成されています.

次に「どこかの行政組織」とは何なのでしょうか.これは「新型コロナウイルス感染症対策本部(対策本部)」にあたります.これが新型コロナ対策における公衆衛生局です.対策本部の本部長は内閣総理大臣で,副本部長・本部員は内閣官房長官,厚生労働大臣,その他国務大臣などで構成されています.

すなわち,専門家集団である専門家会議が,行政組織に該当する対策本部に対して医学的,公衆衛生学的助言を行っている構図がわかりますね.

2)法律的根拠

さて,もう1つ重要なことがあります.「新型コロナウイルス感染症対策本部」を設置した根拠です.前述で「行政はよかれと思って何かをするわけではない」ことを説明しました.つまり,「新型コロナウイルス感染症対策本部」もよかれと思って根拠なく設置することはしません.では設置根拠は何なのでしょうか.

それは新型インフルエンザ等対策特別措置法です.名前からもわかる通り,これは法律ですね.この法律は,国民の大部分が免疫を獲得していないなどの理由により,全国に急速に広がりそうな感染症に対応するためのルールを決めたものです.すなわち,平成24年交付,平成25年に施行されたこの特別措置法(令和2年改正)を根拠として「新型コロナウイルス感染症対策本部」が設置されたわけです.

そして,対策本部の長に内閣総理大臣があてられていますが,これも同じように新型インフルエンザ等対策特別措置法に根拠があります.

では専門家会議が設置された根拠は何なのでしょうか.これは,新型コロナウイルス感染症の対策について医学的な検知から助言等を行うために,対策本部の決定によって設置されました.ではなぜそのように決定されたのでしょうか.それは例えば,対策本部が基本的対処方針を定める際には専門家や学識経験者の意見を聴かなければならないと新型インフルエンザ等対策特別措置法に定められているからです.

その後の感染の拡大に伴い,緊急事態宣言が発出されましたが,これも新型インフルエンザ等対策特別措置法に定められていることです.

著者注 法律のことが気になった方,第2章の「根拠となる法律とは?」を先に読んでみましょう.

新型コロナウイルス感染症に対しては,PCR検査やワクチン,薬物治療ばかりがテレビを中心として取り上げられますが,日本で何が行われているのかを知るためには,このような(法的背景も含めた)構図があることを,専門家である私たちはまず理解しなければなりません.

そして一切の権限をもたない専門家集団専門家の助言を必要とする行政組織が存在する,この構図はよく出てきますからぜひ押さえておきましょう.

私たち専門家の助言を受け,行政組織は責任者として適切な判断そして適切な指示を行うことが求められています.

  • 専門家会議≒John Snow
  • 対策本部≒公衆衛生局

公衆衛生と経済のつながり

さて,では専門家集団である専門家会議はどのような立場から発言することが求められているのでしょうか.

  • 「公衆衛生学的な根拠」にもとづく発言か
  • 「経済活動にも配慮」した取り組みについてか

基本的な考え方としては,第一に「専門家の独立性を担保したうえで」「公衆衛生学的に正しい意見」を行政に助言することが大前提となります(図2).「日本として」ではありません.「公衆衛生学的な観点から正しいこと」すなわち学問的な正しさの観点から助言するのです.最初から経済活動に配慮した取り組みについて考える必要はなく(もちろんそういう見地があってもよいのですが),まず専門家の見地から公衆衛生学的に正しく必要な対策を行政に助言することが求められます.新型コロナウイルス感染症対策においては,医療機関の受診方法やテレワークの推奨などの助言がなされたのは記憶に新しいことと思います.

では,経済活動には配慮する必要はないのでしょうか.それは新型コロナウイルス感染症対策専門家会議が責任をもって考えることではなく,例えば経団連,同友会,日商などから行われる提言などによって行政が判断するべき事柄になります.

専門家集団がいろいろと配慮してしまった結果,公衆衛生学的な見地から必要な対策について助言できないことが最もあってはならないことです.行政は各方面からの助言や提言を踏まえて,徐々に経済活動とのバランスをみながら,一定の経済活動を行うに際しての必要な対策について,専門家集団に助言を求めることになります.その際に私たち専門家は経済活動にも配慮した適切な助言を行うことになります.新型コロナ対策でいえば例えば「接触を8割減らす」のようなところに表れてくるわけですね.

著者注 その後,「新型コロナウイルス感染症対策分科会」が新設されて,公衆衛生学的な視点だけでなく日本経済の観点も含めてバランスのとれた助言が行えるようになりました.

大事なことなのでもう一度言いますが,最終的に責任をもって周知するのは行政の責任になっています.

  • 専門家は公衆衛生学的に正しいことが求められている
  • 各専門家・団体の意見が行政(責任者)に集約される

新型コロナ対策にみる公衆衛生と臨床のつながり

さて,ここまで国単位での新型コロナ対策について考えてきましたが,実際に治療を行っていたり検査をしているのはここではじめて解説する臨床の現場ですね.臨床の現場からの意見は考慮されないのかといえば,そんなことはありません.臨床現場の声を集めて日本医師会からも例えば「医療危機的状況宣言」が行われています.行政は,もちろんその点についてもきちんと検討したうえで,今後の対策を行っていく責任があります.

意見を出す以外の活動として臨床の現場ではPCR検査を行って治療することだけを求められているのでしょうか.それは全く違います.臨床の現場においては,感染症法などを根拠として,新型コロナウイルス感染症と診断した際は,ただちに届出を行うことが求められます.この臨床の現場からの迅速な届出により,皆さんが毎日ニュースで見ている「速報;本日の新型コロナ患者発生数は○○件」という時宜にかなった情報が届けられているわけです(感染症については第4章で詳しく解説します).

著者注 感染症法とは,感染症の発生およびまん延を防止させるため,感染症発生の予防と感染症患者に対する医療について必要な措置を定めた法律です.この法律における感染症とは,一類感染症,二類感染症,三類感染症,四類感染症,五類感染症,新型インフルエンザ等感染症,指定感染症および新感染症のことを指しており,新型コロナウイルス感染症は指定感染症として定められています.
  • 臨床の現場においても公衆衛生学的な役割が求められる
  • これらの役割にも明確な法的背景が存在する

全数PCR検査はなぜ行われないのか

さて,連日各種報道などで「PCR検査が行われていない」ことが指摘され続けました.海外の一部地域では積極的にPCR検査が行われているというのに日本ではなぜ数が少なかったのでしょうか.

もちろんマンパワーや医療資源の不足があったことは事実ですが,検査数が少なかった理由はむしろそこにはありません.

これを理解するためには,第6章で解説している疫学の知識が必要になります.そのため,細かな説明は行いませんが,ここでは「適切なタイミングで行われない検査がいかに無駄であるか」を感覚で理解しましょう.

1)感染の確率

さてここで検査の有用性について考えるにあたって,新型コロナウイルスのPCR検査が「感度90%,特異度99%で新型コロナウイルスに感染しているかどうかがわかる検査」であると仮定して話を進めていきましょう(実際にはもう少し精度は低いですが).

著者注 感度・特異度の意味がわからなくてもこのまま先を読み進めてください.

わかりやすくするため,2人の人物に登場してもらいます.

1人目:70代男性
  • 高血圧・糖尿病の既往があり,5日前から38℃台の発熱がある.最近息苦しくなってきたことを主訴として来院した.診察した医師はこの男性が新型コロナウイルスに感染している可能性を40%と考えた.
  • PCR検査を行ったところ陽性であった.
2人目:20代女性
  • 基礎疾患なく,発熱は認めない.昨日から倦怠感を認める.診察した医師はこの女性が新型コロナウイルスに感染している可能性を1%と考えた.
  • PCR検査を行ったところ陽性であった.

さて,この2人が新型コロナウイルスに感染している可能性は何%でしょうか? まだ疫学をきちんと勉強していないと「検査陽性=感染成立」と考えて,2人とも感染している確率100%と考えてしまいがちですが,それが全くの間違いです.

詳しい説明は第6章 公衆衛生の研究手法の感度・特異度・検査前確率・検査後確率を解説しているところを読んでほしいのですが,計算結果だけここに乗せると

70代男性の感染確率:約98%
20代女性の感染確率:約48%

となります.48%というと高そうですが,「100人の陽性者がいたら52人は間違って陽性と出る(偽陽性)」,ということです.

続きは本書をご覧ください

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