普通の分子生物学の教科書では学べない,医師・研究者に最も大切な生物学的背景から「生物学的ものの見方」も含めた最新の分子生物学までが講義の語り口で楽しくわかる!高校生物を学ばなかった人も含め,学生から教授まで幅広い読者に大好評.
わからないことが何かを知りたいという井出オロギー
御本人が前置きで、「教科書の背景や行間を埋めたいんです」とおっしゃっているからといってウラ本ではありません。語り口がとても読み手に馴染みやすい口語体だからといってサイエンス読み物でもありません。実によくできた純正の生物学的分子生物学の教科書です。
退屈であるはずの分類学についての第1日目の講義からして飽きさせず(講義では大切ですよね)、トレンディーなトランスクリプトームやプロテオームの話題まで含めた最終日の第8日目の講義まで落語を聞いているような気分で読み通せます。細胞核だって、細胞周期だって、セントラルドグマだって、遺伝学だって、入っています。語られている内容が真に科学的でありながら、まくら(基本)から落ちまでの間には最新のポイントがふんだんに盛り込まれているんですよね。
噺のおもしろさは、筋だけではなくて語り手の個性を含めた能力にもよると思います。本人が知って感動した(すいません、今も感動しているはずです)ことを丁寧に人に伝えようとされているのではないでしょうか。知ることに感激できる著者の感受性が、噺にアクセントをつけ、聞き手には理解しやすいという長所を生んでいるようです。
99ページや162ページの講義中の余談にあるように「わかってないことがたくさんあって、少しはわかることもある」という一言が一番語りたかったのだろうと感じました。「医師、研究者、学生、院生の必須単位」という多分井出氏が考えたと思われる宣伝文句には、どこか反骨の著者の内心の「教官と呼ばれる人たちにもどうぞ」の思いがあるのでしょうか。
(評者も影響を受けて、読み終えて書いたこの書評の文体はちょっと井出風になってしまいました。すいません^^;)
書評執筆:永田恭介(筑波大学基礎医学系感染生物学)
この教科書を読む皆さんへ
教科書はもちろん知識を得るための手段です.でも得る知識は,たとえ同じ教科書であっても人により,また読み方によりさまざまです.分子生物学の知識は,この本を丹念に読めば得られます.でもそれ以外の知識もこの本から得られますので,これについて少し紹介しましょう.道草話として聞いてください.
すべての人の行為は,縦糸と横糸といえる関係で綴られていると言えます.個々の行為を横糸とすれば,その数々をつないだ人生の縦糸はそれぞれの人の想いであり,意思でありましょう.勉強や研究でも同様です.横糸の知識の量と質は大切ですが,これを綴る想いの縦糸は負けず劣らず大切です.井出先生の教科書は,ともすれば横糸ばかりになりがちの分子生物学の知識を強力な縦糸で綴って見せてくれると言えるでしょう.そしてこの縦糸が面白いのです.それは井出先生のまるごとの生き物に対する強い興味と深い洞察なのです.だからこの本では「なぜ」がやたらと多い.東京のご出身と聞きますが,ご幼少のみぎりの井出先生はあのメガロポリスにあっても蝉やトンボを追っかけていたに違いない.縦糸になる生き物まるごとへの思いが強いからこそ,膨大で多様な知識を網羅してこの教科書を一人でまとめられました.昨今の分子生物学の教科書のすべてが複数の著者で書かれていることからすると,ほんと,信じられないですよね.
井出先生の生き物まるごとに対する興味の背後には,人間に対する興味が見え隠れします.だから随所にヨタ話があります.それにしてもよくも掲載したものだと思わせるきわどいのもありますよね.でもこれらのすべてに井出先生の人間に対する興味と洞察が見えるので,まあ少々の品の悪さは仕方ないですよね.というわけで,井出先生の縦糸は人間まるごとの縦糸でもあります.
今日の分子生物学につながる生物学にはもちろん長い歴史があります.言わずもがなですが,生物学は19世紀にずいぶんと新しい展開があり,20世紀後半になって加速度的に発展しました.この急速な展開には,要素還元主義的手法が大いに力があり,これは今も同じです.でもこの手法の限界も議論されています.例を挙げましょう.演算機能では人間の何億倍・何兆倍の機能を持ち要素還元主義の権化とも言える専用のスーパーコンピューターでもチェスの天才カスパロフに完勝することができません.コンピューターはそれを生み出したわれわれの思考という限界を持っているからです.でも生身の人間は時としてこの限界を突破します.ましてやまるごとの生き物は突破だらけです.19世紀から20世紀前半の生物学は,学問が成熟していなかったこともあって,まるごとの生物学でした.しかもこれはほかの学問領域とも密接に関係を持っておりました.さらに自然科学も超えて,文学や芸術そして宗教とも関係した展開をしておりました.生命科学は技術以上のもののみでなく,情動と知性の間を揺れ動く存在としての人間を考える上で重要な手がかりを与えてくれます.そして今は人間の限界と可能性を深く考えることがこれまで以上に大切な時代になっております.というわけで,井出先生の教科書に見え隠れする人間への洞察,そして「ものの見方」についても十分心して読んでほしい.
最後に細かいことですが,この教科書で面白く語られているいろいろなお話のいささかチャランポランさの背後には,繊細な心使いがこめられてある点も知って下さい.教科書は本来知識を得るためなので,知識を体系化することにより効率よい伝達を図ります.教科書ではありませんが,大学院生など研究の現場に近い人々を対象にする総説雑誌では,解明されている点を強調して書かれてあることが多いようです.体系化や解明された点の強調は,利点もありますが,その一方で読む方はすべてわかってしまっているような気になりかねず,これは困った落とし穴となります.井出先生はこの危険性を十分に心得ておられ,整理された知識に加えて現段階でまだわかっていない点についても繰り返し言及しておられます.この本にたくさんある「なぜ」は井出先生の「なぜ」でありますが,同時に皆さんの「なぜ」でもあります.
書評執筆:丹羽太貫(京都大学放射線生物研究センター教授)
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