近年の分子生物学的技術の進歩とゲノムシークエンシングによるデータの蓄積によって,より大規模で統合的に脳のしくみを理解しようとする研究が精力的に進められています.そのなかでも記憶や行動のメカニズム解明に向けた研究は,遺伝子型と表現型を結ぶ機構に迫るだけでなく,精神疾患の発症機構を明らかにするという観点からも大きな注目を集めています. 本特集では,分子生物学的・遺伝学的アプローチによるマウス個体での解析結果を中心に,行動を司る生命機能のメカニズムがどこまで解明されたのか,そして今後どのような研究展開が予想されるのかを,豊富な用語解説を交えながら第一線の研究者にわかりやすくご紹介いただきます.時期・部位特異的遺伝子改変マウスやレスキューマウスを用いた行動解析から,リン酸化が行動へもたらす影響,fMRIを用いた脳の機能・構造解析,統合失調症の関連遺伝子同定など幅広い内容となっています. また本号では,特別インタビュー記事として「国立大学法人化から1年—研究者はどうあるべきか?」を掲載しております.こちらも併せてぜひご一読ください.
目次
特集
ポストゲノム時代のブラックボックス
行動を司る脳機能の分子メカニズム
企画/宮川 剛
概論〜脳神経科学のlarge-scale化とマウスを用いた精神疾患の研究【宮川 剛】
行動を司る脳は謎に包まれたブラックボックスであった.しかし,分子生物学の技術の目覚ましい進歩やゲノムシークエンシングの終了に代表されるような知識・データの蓄積などにより,その統合的な理解へ向けて脳研究のラージスケール化の気運が高まっている.本特集では最先端の脳研究のいくつかを紹介するが,今後,分子レベルから行動・疾患レベルまでの研究がいかに統合されうるかをイメージしつつご覧いただければ幸いである.
モノアミン神経系と報酬,薬物依存【曽良一郎/小林秀昭】
依存性薬物の報酬効果は,薬物の標的分子は異なってもドーパミン神経伝達が関与すると考えられてきた.しかし,覚せい剤であるコカインは標的分子であるドーパミントランスポーターが欠損したマウスモデルにおいて報酬効果が保持された.ドーパミン神経伝達が他のモノアミン神経における再取り込み機序によっても制御される可能性が示唆され,依存性薬物の報酬効果はモノアミン神経系の複雑な相互作用が関与していることが明らかになってきた.
タンパク質リン酸化・脱リン酸化の行動への影響〜DARPP-32を中心に【西 昭徳】
大脳基底核の線条体神経には,ドーパミンの効率的情報伝達に必須なタンパク質DARPP-32が発現している.DARPP-32はThr34残基がPKAによりリン酸化されるとPP-1インヒビターとして作用し,受容体,チャネル,転写因子などのPP-1基質脱リン酸化を抑制する.DARPP-32遺伝子改変マウスを用いた行動解析により,DARPP-32はドーパミン作動薬,中枢興奮薬,抗精神病薬などの作用を増幅することが明らかにされた.DARPP-32の1アミノ酸(Thr34残基)のリン酸化がドーパミン関連行動を制御しており,神経機能調節におけるタンパク質リン酸化と脱リン酸化の重要性を示唆している.
遺伝子レスキューマウス作出による小脳の運動学習機構の解明【平井宏和】
遺伝子ノックアウトマウスを作出し,これにより遺伝子の生体における機能を解析することは現在では一般的に行われている.しかし単純な遺伝子ノックアウトだけでは詳細が不明なことが多く,さまざまな改良がなされている.ノックアウトマウスに欠損している遺伝子を脳部位特異的に発現させ,回復する機能を調べることによりその部位における遺伝子の役割を調べる「レスキューマウス」作出もその1つである.最近では目的のノックアウトマウスがすでに作出されていて,自らつくらなくても手に入るようになってきていることから,レスキューマウス作出は特定脳領域の遺伝子発現と行動との関係を調べる有力なアプローチとして注目を集めている.
大脳皮質にみる自発的な神経活動【池谷裕二】
脳は外部情報が与えられなくても常に自発的に活動している.外界から孤立した神経細胞の活動は無用なノイズとして解釈されてきたが,近年こうした自発活動には偶発レベルを越えた「秩序」が潜んでいることが明らかになった.とりわけ,感覚系からの入力があると流動的だった自発活動が特定ノイズの時空パターンに固定されることから,外部刺激は神経応答を誘発するのではなく,遷移する内部状態から特定の「相」を選択する役割を演じていると解釈される.つまり,受動的な静的システムとしてではなく,内発的に情報を生み出し自己を書き換えうる創生システムとして脳を捉えなおす必要がある.
時期・領域特異的遺伝子改変マウスの学習・記憶研究への応用【安田昌弘】
遺伝子改変マウスの導入は,神経心理学による記憶のメカニズムの解明に新たな光を投じた.しかしさらなる記憶のメカニズムの解明には,時期・領域特異的遺伝子改変マウスの導入が待ち望まれていた.近年の分子生物学の発展によりようやく時期・領域特異的遺伝子改変マウスの可能性が開けてきた.本稿では時期・領域特異的遺伝子改変マウスのシステムの概要と嗅内皮質を含む時期・領域特異的遺伝子改変マウスを使って明らかになったこの領域の記憶への役割について述べたいと思う.
脳画像を用いたヒト認知機能の遺伝子基盤研究【坂井克之】
行動レベルで認知能力に個人差があることは自明である.このような個人差を規定する因子として,正常人にみられる遺伝子多型がクローズアップされてきた.一方,機能画像の発展によりヒトの認知機能を司る神経機構が徐々に明らかにされ,脳活動パターンの個人差を捉えることが可能になった.現在,認知神経機構の動態に対する遺伝子の影響を探るべく双生児法,あるいは遺伝子多型に基づいたグループ分けをした脳画像研究が行われはじめた.今や分子生物学と認知科学を融合する時代に一歩近づきつつあるといえよう.
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