羊土社代表取締役会長 一戸裕子より,「実験医学」創刊当時と,分子生物学黎明期の先生方との思い出を紹介いたします.
「実験医学」が700号を迎えました。1983年の創刊当時を思い起こせば、まるで夢のようです。当時、分子生物学はまだ緒に就いたばかりで、分子生物学会の会員も1,000名を数える程度でした。そんな中で「DNAから個体へ」という創刊特集を掲げた本誌は、700号どころか創刊すら危ぶまれる状態でした。その当時の思い出のいくつかを、ここにご紹介申し上げたいと思います。
今から40年近く前、新米編集者だった私は雑誌創刊を目指し、先生方の中を飛び回っておりました。そのお一人が、「創刊の辞」をお願いした山村雄一先生です。山村先生は大阪大学の総長をしておられましたが、内科の教授でもあり免疫学者でもありました。基礎と臨床に通じた視点の大きさが、「創刊の辞」にあふれています。私どもの指針とさせていただいて参りました山村先生のお言葉を、700号記念に当たり、ここに再掲載申し上げました。
「創刊の辞」をお願いするために、私は大阪大学を訪ねました。中之島をお訪ねしたらなんと移転の後で、吹田におられるとのことでした。大遅刻です。タクシーを捕まえて吹田に走り、総長室に飛び込みました。総長室があまりに広く見えたので全力で走り、山村先生にぶつかってしまいました。正面衝突です。謝る私に、山村先生は大らかに笑ってくださいました。そうして「創刊に当って」という言葉を、見事にご執筆くださったのです。
その後、鼎談にご出席いただく機会もありました。「実験医学」の個性あふれる顧問である大野乾先生、江橋節郎先生、そして山村雄一先生の三大巨人の座談会です。それはもう素晴らしく面白いお話でした。いつしか研究の話を離れ、先生方はそれぞれの波乱万丈の人生を語り、夢や未来を熱く語り、まるで天高く駆け巡るようでした。
ふと山村先生が私に、「お仕事はどうですか」と話を振られました。恐縮した私は、気弱なお返事を返したのだと思います。すると山村先生は大きな声で笑いながら言われました。「猪突猛進と好奇心、それだけであなたはこれまでやってきたでしょう。これからもそれで大丈夫ですよ」
あの総長室で衝突してしまった時のことだと、私は恥じ入りました。けれどもその山村先生のお言葉は、ありがたい言葉だったと思います。編集や企画という仕事は無から有を作り上げる仕事です。出来上がった本がどんな評価を受けるかわかりません。時には崖から飛び降りるような思いで決断することもありました。そんな時、「猪突猛進と好奇心」という言葉は、とんと背中を押してくれる言葉でした。
あるいはそれは、研究の上でも人生の上でも同じかもしれません。もしかしたら山村先生ご自身もまた、「猪突猛進と好奇心」で、人生を送られたのではないかと、いま私は思い返しています。
大野乾先生の思い出はあまりにたくさんあって、とても語りきれません。「実験医学」の顧問として温かく見守っていただき、また本誌上に人気連載のご執筆を長い間続けていただいた大恩人です。「大いなる仮説」という連載は大変な人気となり、単行本として出版しました。その後「続 大いなる仮説」、そして最後に「未完 先祖物語」を出版させていただきました。
大野先生といえば印象的なのはその風貌でしょう。身長は1メートル80センチを越え、口元には両端がピンと上がったカイゼル髭を生やし、そのお顔は非常に整って端正で、すれ違った人が振り返ってしまうような方でした。アメリカで研究生活を送り、世界中の研究者と親交が厚く、乗馬の腕前はオリンピック選手並み、酒の強さはロシア人にも負けないと、その逸話は数知れません。遺伝子研究をされ、遺伝子配列を音楽に変えてピアノ曲まで作曲されました。
そういう大野先生のスケールの大きさに、お会いする度に感動したものです。あのように桁外れの方がいらしたということが、今となれば誠にありがたい気がします。まさに大いなる方であったと思います。
あのころは黎明期だったのだと思います。黎明期には多くの豪傑が生まれます。群雄割拠の時代だったと、いま私は振り返って思います。
もう一人の「実験医学」顧問の江橋節郎先生もそうでした。基礎研究に強大な影響力を持つ江橋先生は、東大退官後、「生涯一研究者」を貫いて生理研の現場にこもっておられました。初めてお伺いした時、先生のズボンが大きく破れていて目のやり場に困っている私など、全く意に介さないお姿が印象的でした。豪傑でした。
井川洋二先生という豪傑もおりました。筑波の理化学研究所にお伺いして初めてお目にかかったのですが、そこは熱気あふれる研究室でした。井川先生がアメリカから招聘した何人もの若き研究者がいて、「梁山泊」と称しておりました。熱く科学を語る井川先生に、「ロマンチックな科学者」「続 ロマンチックな科学者」という単行本を編集していただきました。アメリカや日本で活躍する研究者の方々に、科学者人生を自由闊達にご執筆いただいた本です。個性あふれるお話ばかりでした。
井川先生といえばワイン好きでも知られていましたが、フランスのシャトーからワインを仕入れて、あちらこちらで(研究室でも)冷蔵保存していたという逸話もなつかしく思い出されます。
豪傑と申し上げると、「いやいや私は違いますよ」と言う声が聞こえてきそうですが、遺伝研におられた森脇和郎先生もなかなかの方でした。マウスの系統に関しては誰よりも詳しくて、どんなマウスでもその掌に乗せればその系統樹がわかってしまうと言われるほどでした。世界中を歩き回り、汚いキッチンに潜り込んだりしながら、野生のマウスを捕まえたそうです。
森脇先生のお話の中で印象的だった言葉があります。「私は野生動物を見ているけど、次世代が育つと免疫機能が衰えてみんな死んでしまう。人間だけですよ、長生きができるのは。年をとって癌で死ねるなんて幸せなことです」
癌になることも死ぬことも不幸と思っていた私は、幸せという言葉に驚いたのを覚えています。野生動物研究者ならではの言葉だと感心したものです。
でもじつは、なつかしい先生方の多くは、まるで順番のようにお亡くなりになられました。やはり、先生方のご逝去は寂しく悲しいことです。しかしいま振り返ってみると、このように個性あふれる先生方と同じ時間を生き、貴重なご指導をいただけましたことは、誠に幸せなことだったと思います。
また、ほかにも本当に多くの先生方のご教導をいただき、貴重なご執筆をいただきました。先生方のご指導ご鞭撻を賜りまして、700号まで「実験医学」の発行を続けることができましたことに心より感謝申し上げます。
生命科学は素晴らしい進展を遂げて参りました。現在、そして未来もさらに一層の発展を続けることでしょう。次なる豪傑が、これからもまた続々と活躍されることと思います。私どもも出版という形を通して、生命科学研究の進展に貢献すべく努力を続けて参りたいと存じます。
最後になりましたが、本誌をご愛読いただいております読者の皆様には、格別の御礼を申し上げたいと思います。皆さまのお力添えがなくては私どもの出版は成り立ちません。これからも真に皆さまのお役に立つ本の出版に努めて参りますので、何とぞよろしくご厚情賜りますよう、謹んでお願い申し上げます。