実験医学:酸素環境と臓器機能〜感知・応答のメカニズムから最新の酸素イメージングまで
実験医学 2020年6月号 Vol.38 No.9

酸素環境と臓器機能

感知・応答のメカニズムから最新の酸素イメージングまで

  • 武田憲彦,田久保圭誉/企画
  • 2020年05月20日発行
  • B5判
  • 147ページ
  • ISBN 978-4-7581-2532-1
  • 2,200(本体2,000円+税)
  • 在庫:あり

概論

臓器機能を制御する酸素分圧 〜「酸素パラドクス」の理解と技術基盤
Molecular oxygen as a determinant of organ fate

武田憲彦,田久保圭誉
Norihiko Takeda1)/Keiyo Takubo2):Center for Molecular Medicine, Jichi Medical University1)/Department of Stem Cell Biology, Research Institute, National Center for Global Health and Medicine2)(自治医科大学分子病態治療研究センター1)/ 国立国際医療研究センター研究所生体恒常性プロジェクト2)

酸素が生命維持に必要であることは好気的生物においては当然の事実とされてきた.一方,近年の研究からは,多細胞生物の体内の酸素環境は多様で動的であり,各臓器の細胞のなかには低酸素環境を好むものが存在することが明らかになった.そしてこうした低酸素を好む細胞たちが臓器の発生や恒常性維持,各種の疾患病態で重要な役割を果たすことも知られるようになっている.本特集では,個体の酸素の必須性とは一見相反するような生物学的知見と分子機構(酸素パラドクス)を解説し,研究を支える最新の酸素分圧観測技術についても紹介することで,臓器機能における酸素の欠乏状態の必要性と意義を浮き彫りにしたい.

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 はじめに—生命維持に必要な酸素


分子状酸素(O2)は好気性生物の生命維持に必須の物質である.そのため,酸素の欠乏(=低酸素)に対する生体応答研究は,生命科学の一つの基礎をなしている.細胞は酸素を利用してグルコースの完全酸化を行い,その過程で獲得した自由エネルギーをもとにして必要量のATPを合成する.ATPはエネルギー通貨として,さまざまな細胞内の反応に用いられて細胞・臓器の機能を維持する.酸素が欠乏した状態でミトコンドリアによるATP生産ができないと,グルコース1分子からのエネルギー産生効率は大幅に低下する.すなわち,酸素の不足は細胞・臓器機能を障害し,生命維持の根幹を脅かすといえる.そこで,動物は進化の過程でガス交換や酸素運搬システムを整え,局所や全身の血流制御を発達させて,全身に酸素を不足なく届ける臓器間の酸素流通システムを確立してボディサイズの巨大化を可能にした.一方,臓器内の局所では,細胞のセンサー分子が酸素不足を感知し,代謝をリプログラムして酸素消費を抑制しながら,血管新生や赤血球造血を活性化して供給を促進する.

これまで全身・局所の酸素分圧低下の感知・応答システムの分子機構の研究から,酸素の欠乏に対する生体応答が明らかになってきた1)〜3).十分な酸素はプロリン水酸化酵素PHDに酵素活性を与え,低酸素誘導性転写因子hypoxia-inducible factor(HIF)-αのODDドメインのプロリン残基が水酸化される.水酸化HIF-αはE3ユビキチンリガーゼVHLに認識され,ユビキチン・プロテアソーム系によってHIF-αは分解されてタンパク質として存在できない.これに対し,酸素分圧が低下すると,PHDは酵素活性を失い,HIF-αはプロリン水酸化とVHLによる認識を逃れてタンパク質として安定になる.安定化したHIF-αは核内移行して赤血球造血因子エリスロポエチン(EPO)や血管内皮成長因子(VEGF),解糖系代謝酵素の転写活性化を行い,赤血球産生や血管新生を誘導して,細胞を低酸素環境に適応させながら低酸素環境の改善を進める(小林・原田の稿).アスパラギン水酸化酵素FIH-1も酸素を補因子としてHIFのC末端のC-TADドメインのアスパラギン残基の水酸化を行う.その結果,HIF-αとコファクターp300の結合が阻害され,HIF-αによる転写活性化は低下する.これらの2000年代までになされた基本的分子機構解明は「低酸素生物学」という新たな学問分野の扉を開き,発見者たちに2019年のノーベル生理学・医学賞が授与された.すでにHIF-αシグナルを活性化するPHD阻害薬の臨床応用が開始されており,腎性貧血の治療に用いられるようになっている(中井・鈴木の稿).

明らかになる,低酸素が臓器機能発揮に必要な局面

これらの知見も含め,生物にとって「生命維持に酸素は十分に必要,これらの欠乏は悪」であることが長く当然の事実とされてきた.しかし近年の酸素の生物学研究の成果から,これらのドグマ的な考えに矛盾する状況「酸素パラドクス」の存在が示されてきた(発生・分化における例を図1に示す).具体的には,①低酸素を好む細胞,必要な状況があること,②酸素環境は「単純ではなく」「動的に変化し」「クロストークする」こと,そして③HIFの活性化や酸素のセンシングを制御する新たな分子が存在する,といった知見である.本特集では,前半5つの各論で,それぞれの専門分野でこれらの知見をもたらしてきた研究者たちが低酸素とその感知応答機構が臓器機能で果たす役割について紹介する.


① 低酸素を好む細胞,必要な状況がある

酸素は必要であるが過剰になると酸化ストレスを生じ,細胞傷害活性を発揮して,その結果細胞死や老化,発がんを誘導する.例えば,骨髄の造血幹細胞は酸化ストレスに脆弱で,過剰な酸化ストレスの負荷が幹細胞エイジングにつながることが知られている4).実際,骨髄の造血幹細胞の維持には低酸素環境が必要であることが示された(綿貫らの稿).また,骨の発生や恒常性維持においても低酸素応答が必要である(西川の稿).これらの例にとどまらず,時期や状況に応じて酸素が欠乏した極限環境を必要とする細胞・臓器が存在する.発生期を例にとると,神経からの赤血球産生シグナル誘導に生理的低酸素応答が必要であることが報告されており(中井・鈴木の稿),病的な状況においても悪性腫瘍組織内や,炎症時のマクロファージ遊走,心臓の線維化では低酸素応答機構が病態の形成に寄与する(武田の各論,小林・原田の稿).さらに,慢性腎不全におけるEPO産生低下に起因する腎性貧血においては,腎臓の低酸素応答がうまく機能しないことが一因であることが知られている.現在,PHD阻害剤によるEPO発現の活性化が新たな治療法となることが示された(中井・鈴木の稿).

② 酸素環境・代謝物環境は「単純ではなく」「動的に変化し」「クロストークする」

組織内には酸素や代謝物の濃度勾配が存在する.勾配は血管からの供給や,近隣の細胞の消費の変化,細胞からの代謝物の放出によって動的にリモデリングされるということが概念的に確立されてきている.例えば,腫瘍と腎臓で酸素勾配の存在とリモデリングが見出された (小林・原田の稿,吉原・飛田の各論).さらに,酸素分圧のみならず,代謝物濃度・種類の組合わせによって細胞側の応答が変化することが明らかになっている5)

③ HIFの活性化や酸素のセンシングを制御する新たな分子が存在する

HIFの活性化や低酸素応答を調節する分子としてαケトグルタル酸依存性ジオキシゲナーゼ(α-KGDD)とよばれる一群の酵素群が必要であることがすでに確立されてきた.PHDやFIH-1のみならず,エピジェネティックな制御因子KDMやTET,RNAの修飾を制御するALKBH5などが新たに列されている.α-KGDD以外にも重要なHIFを介した低酸素応答の制御因子が報告されており,小林・原田の稿で紹介する.また,HIF以外の低酸素感知応答機構として,酸素センサーとして機能するTRPA1カチオンチャネルをはじめとする酸化還元状態センサーチャネル群が同定され,TRPA1の低酸素感知機能はHIFと同様PHDにより制御されていることが見出されている6).一方,システインジオキシゲナーゼの一種が種間で保存された酸素センサーであることも示されており7),酸素センサーが複数存在して重層的に機能することが明らかになっている.

以上のいずれの知見も,生体内は「高/低酸素環境」と大別できるような,二元論で把握可能な単純な環境ではなく,時空間的に複雑で変動する酸素環境であることを示している.また,感知応答系もHIFでシンプルに説明できる状況ばかりではないことが明らかとなった.こうした低酸素が臓器機能発揮に必要な状況の報告は増加し続けており,動的な細胞外の酸素環境が,細胞側の内環境に多様な入力を与えて,細胞・臓器・そして個体の運命を制御すると考えられるようになってきている(概念図).

酸素環境を観測する技術

一方,既存技術のみではこの複雑で動的な低酸素環境の分布や変動の観測は困難であり,研究の発展を阻害する要因となっている.生理学的・病理学的な低酸素の実態と意義を理解するためにはいくつかの障壁が存在している.これを乗り越えるために必要と考えられる技術は例えば,「酸素の局在と変動の観測」,「酸素による細胞運命変化の観察」,「酸素分布の局所操作」,といった要素技術である.本特集では後半の2つの各論で,これらの技術のうち「酸素の局在と変動の観測」技術に関する最新の知見を紹介する.吉原・飛田の稿では,りん光酸素プローブを用いたりん光寿命イメージングによる空間内の酸素分圧の絶対定量技術について,原理的な部分も含めて解説する.また,実際のアプリケーションとして腎臓の酸素分圧の絶対測定の例を紹介する.松元の稿では,磁気共鳴画像MRIや電子常磁性共鳴画像EPRIを用いた非侵襲的な酸素分圧や代謝物変化の観測技術を解説する.これらの技術は生体内深部における酸素・代謝物の中長期的な変遷の非破壊観測を可能にする.さらに酸素分圧の観測技術を質量顕微鏡やラマン顕微鏡といった代謝物の可視化技術と組合わせることで,局所の酸素環境が臓器機能に及ぼす影響を,より完全に理解することが可能になることも期待される.

 おわりに—酸素パラドクスの理解の先に

低酸素応答の生物学は,HIFそのものの制御機構や上流・下流のシグナル研究から大きく発展している.現在,HIFも含む多様な分子機構を通じて,動的に生じる低酸素環境を細胞が感知して,臓器の機能発揮や病態形成に寄与することが明らかになってきている.今後はこうした新たな分子の詳細な機能の解析や,特定の低酸素を好む細胞を起点にした臓器や個体の恒常性調節機構が明らかになることが期待される.外環境には分子状酸素以外のガス分子や,代謝物も存在しており,それらが形成する動的な化学物質環境が,細胞や臓器機能に及ぼす影響も明らかになるであろう.また,本特集では紹介できなかったが,「酸素による細胞運命変化の観察」技術として細胞系譜解析等が,「酸素の局所操作」のために微小循環やガス分子の分布に摂動を加える技術がそれぞれ開発されている.その他さらなる技術的なブレークスルーによって各種臓器の生理的・病的状況の高精細な酸素の時空間プロファイルが得られ,それに基づいて酸素パラドクスの理解が深まっていくことが大いに期待される.本特集がそうした未来につながる研究の潮流の理解の一助となれば幸いである.

文献

  • Semenza GL:Cell, 148:99-408, 2012
  • Ivan M & Kaelin WG Jr:Mol Cell, 66:772-779, 2017
  • Ratcliffe PJ:J Physiol, 591:2027-2042, 2013
  • Suda T, et al:Cell Stem Cell, 9:298-310, 2011
  • Osawa T, et al:Cell Rep, 29:89-103.e7, 2019
  • Takahashi N, et al:Nat Chem Biol, 7:701-711, 2011
  • Masson N, et al:Science, 365:65-69, 2019

著者プロフィール

武田憲彦:自治医科大学分子病態治療研究センター教授.1996年東京大学医学部卒業.2005年東京大学大学院医学系研究科博士課程修了.’08年日本学術振興会海外特別研究員としてカリフォルニア大学サンディエゴ校へ留学.Randall Johnson教授のもとで酸素シグナルによる炎症制御機構の研究に従事.’11年より東京大学医学部附属病院循環器内科にて助教,特任講師として勤務.’11年JSTさきがけ研究員“慢性炎症”,’14年“生体恒常性”を兼任.’20年4月より現職.酸素生物学からのアプローチにより循環器疾患の診断・治療に貢献したいと考えています.

田久保圭誉:国立国際医療研究センター研究所生体恒常性プロジェクト長.2003 年,慶應義塾大学医学部卒業,’07年,同大学院医学研究科博士課程修了(発生・分化生物学,須田年生教授).日本学術振興会特別研究員,慶應義塾大学坂口講座テニュアトラックプログラム専任講師を経て’14年より現職.低酸素微小環境と幹細胞の相互作用の研究から細胞社会のエコシステムを深く理解し,生老病死の本質を知りたいと考えています.

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