第05回『近未来ラーメン・ウェスタン』
「ちょ、ちょっと先輩、まずいですって!」
暗闇の中で背の高い若い男がおどおどとしながら、少し前を歩く小柄な女性を止めようとする。
「だから、アンタは残っていればよかったじゃない。何でついてきたし」
小柄な女性は苛立った様子で振り返る。眼鏡のレンズに薄いオレンジ色の文字のようなものが次々と浮かんでいる。
「ほら、それよりちゃんと服を2021年当時のものに換装して」
女がそう言いながら手首の腕時計のようなデバイスを操作すると、着ていたライダースーツに似た衣類が消え、一瞬のうちに薄い萌黄色のガウンワンピースが現れる。
「うへぇ、何このだぼだぼしたの。この時代の人ってよくこんな動きづらそうな衣装で生活できるわね……って、なんかアンタの方は動きやすそうね」
女は同じく着替えた男の黒いスキニーパンツをじろじろと見ながら言う。
「そうですか? これ、強度とか大丈夫か不安になるくらい薄いですけど」
やはり男の方も着慣れない服に違和感を覚えているようで、引っ張ったりして感触を確かめている。
「馬鹿ね、 “そう見える” だけで、中身はいつものイマジナリースーツなんだから耐衝撃性、耐熱性、何もかもいつも通りに決まってるでしょ」
「まぁそうなんですけど……で、これからどうするんスか? 教授の留守をついてタイムマシン勝手に使ってまで来たんですから、よっぽどのことがあるんですよね?」
「この時代の人間の “大便” を集める」
「……は? えっ、はぁ!? ちょっとアンタなにいってんスか、ツヅミ先輩?」
あまりの意味のわからなさに男は驚いて声を荒げる。
「だから、声が大きいって言ってるつーの……いい、ゴロー。この2021年って、Live biotherapeutics(生きている生物学的製剤)の黎明期でしょ? ベンジャミン・スコットが炎症性腸疾患(IBD)の発生を防ぐために、トリガーとなる腸内で発生した細胞外ATP(eATP)を指向性進化で高感度に改変したヒトP2Y2受容体センサーで感知して、そのシグナルを受けて馬鈴薯のATP分解酵素であるアピラーゼを発現するようにバイオエンジニアリングした酵母を開発した年。
これより前にもIL―10とか腸管向けの生物製剤用のバイオエンジニアリング酵母はあったけど、スコットたちのように、ATPを大量に分解した際に生じる大過剰量のアデノシンが線維化を引き起こすことを防ぐために、精密なセンシングによるネガティブフィードバックを組み込んだ系はなかった。まさにこの2021年が一つのターニングポイントって言えるわけ。Live biotherapeuticsにとってね」
ツヅミと呼ばれた若い女性がふふんと鼻を鳴らす。
「はぁ。バイオエンジニアリング酵母の話はわかりましたが、ツヅミ先輩の修論って、別にLive biotherapeuticsじゃないっスよね? というか、確かまだテーマ決まってなかったんじゃ……」
「そうなのよ! あの教授、私だけ蔑ろにして」
ゴローは(勝手にタイムマシン持ち出すアンタの性格のせいでしょうよ)と喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
「……こほん。バイオエンジニアリングした微生物による腸管内細菌叢をターゲットにしたLive biotherapeutics なんて2121年の今じゃ当たり前のテクノロジーだけど、いえ、当たり前になったからこそ、わからなくなったこともあるとは思わない?」
ツヅミはにやりと口角を上げる。
「いや、全然思いつかないっス」
ゴローは即座に言い切る。
「はぁ、これだからアンタは。私たち2120年代の人間は生まれる前からバイオエンジニアリングされた腸管内細菌叢を持ってるわけでしょ? もはやオリジナルの本来、人間が持っていたものがどんなものだったかなんて、文献の中でしか知らない。だから、この年に来れば、Live biotherapeuticsを受けていない、つまり “元々の腸管内細菌叢を持った人間” からサンプル採取できるだろうって思ったわけ」
ツヅミはもう一度、ふふんと得意気に鼻を鳴らす。
「いや、それを採取してからどうするんスか?」
「そんなこと、採取して色々調べてから考える」
ゴローは(ほら、そういうところだよ)と声に出す代わりに深い溜息をつく。
「ははぁん、ゴロー、アンタ怖いんでしょ?」
ツヅミが意地悪そうに笑う。
「怖い? この時代の人間がですか? 一応、タイムトラベルの実習受けてますし、その時に接触訓練もしてるので、特には」
「臭いらしいわよ」
「臭い? 何が⁇」
「この時代の人間の大便よ。ソイレント食に最適化されてる私たちと違って、この時代の人間は雑多な食べ物食べるし、大便が」
「ああーー! もうそれ以上結構っス」
ゴローは額に手を当てうなだれながら、改めて問題児の先輩についてきたことを後悔する。ツヅミはそれを見て悪びれる様子は一切なく、けらけらと笑っていた。
「ところで、ここはどの辺なのかしら? 急いでたから、きっちりと座標指定してこなかったけど」
ツヅミがあたりをきょろきょろと見渡す。この時代ではまだ主役のガソリン車がひっきりなしに通り過ぎて、歩道には大勢の通行人が思い思いの方向に歩いている。
「ネオトウキョウの09地区あたりだから……この時代は『荻窪』って呼ばれてますね」
「荻窪、ね。ふーん」
ツヅミは手を後ろで組んで、あたりをふらふらと歩く。すると、どこからかこれまでに経験したことのない独特な匂いが漂ってくる。
「うん? 何かしら、この匂い」
「分析デバイスの結果だと、ケトン類、芳香族炭化水素類、ピラジン類どうも “鰹節” って食材のフレバーみたいですね」
そうなんだ、と答えたツヅミが匂いの元をたどると、何人もの通行人が『日暮れラーメン』と看板を掲げている店に吸い込まれていく。
「ラーメン?」
「小麦粉で作った麺を、様々な食材を使って作ったスープの中に入れて食べる料理、とありますね。まぁ、ソイレント食に最適化されてる俺たちには関係ないですけどって、ちょ、ツヅミ先輩、どこ行くんスか!!」
ゴローの説明の途中で、ツヅミは「ちょっと行ってくる」と駆け出す。
「ちょ、何言ってるんスか! 俺たちにはこの時代の食べ物はーーって、ああ、もう知らないっスよ……」
ゴローが今日一番深い溜息をついたその時には、すでにツヅミの姿は『日暮れラーメン』の中に消えていた。
「へー! これがラーメン!」
ツヅミの前にラーメンが運ばれてくる。
「はは、お嬢ちゃん、ラーメン初めてみたいなこと言うねぇ」
年配の小太りの店主が笑いながら話しかけてくる。
「ええ、初めてなんです、ラーメン。このスープからしてくる匂い、独特なこの匂い、何ですか?」
「ああ、うちは飛魚と鰹節を秘伝の配合で組み合わせたオリジナルでな。この中太麺との相性は抜群よ」
きらきらとした目をしながらおいしそうに麺を(だいぶたどたどしくあるものの)啜るツヅミに、店主は気を良くしてついつい話し込む。
「それでよぉ、この麺にも秘密があって」
ツヅミはそんな店主の長話を少しも嫌がるわけでもなく、時折メモを取りながら、ふんふんと熱心に聞いていた。
それから10時間ほどして、ツヅミの姿は最初にこの時代に降り立った場所に近い公衆トイレの中にあった。やがて、げっそりした様子でゴローが待つ場所にやってくる。
「はぁ……言わんこっちゃない。バイオエンジニアリングされてソイレント食に最適化された僕たちの腸内細菌叢じゃあ、この時代の食べ物は消化不良起こすって、アンタも知ってるでしょうが」
ゴローは溜息をついて、額に手を当てながら首を振る。
「あのさ、ゴロー。あたし、修論のテーマ決めたよ。こんな美味しい食べ物を食べれないなんて悔しいじゃない? だから、『古代食ラーメンの復活と、そのために必要なバイオエンジニアリング腸内細菌の合成生物学的手法を用いた作製』、どうかな?」
ソイレント食に最適化され腸の異常などとはおよそ無縁だったツヅミは、おそらく生まれて初めての下痢にふらふらしながらも、目だけはきらきらと輝いている。
そういえば、この目に惹かれて一緒にいるんだっけ、とゴローは小さく笑う。
「……ねえ、あたしよくやってるかな?」
ツヅミは少しだけうつむいて尋ねる。
「十分よくやってますよ」
「偉い?」
「はいはい、偉いっスよ」
今度は大きく笑いながらゴローが言う。それにつられて、ふらふらのツヅミも少しだけ頬を赤く染めながら笑う。その後、元の時代に戻った二人は未承認のタイムトラベルでこっぴどく怒られ、仲良く停学処分を受けるのだが、それでも二人は目標をしっかりと定めた、どこか確固とした意志や自信のようなものが顔からあふれていた。
それから数年が過ぎた2125年ネオトウキョウの街中で数十年ぶりに復活したラーメンを作る女店主と、彼女にこき使われる定員の二人で切り盛りする飲食店が繁盛することになるのだが、それはもう少し先のお話。
(了)
Scott BM, et al:Nat Med, 27:1212-1222, 2021
炎症性腸疾患(IBD)の原因となる細胞外ATP(eATP)を分解する馬鈴薯由来酵素・アピラーゼを発現する酵母を作製し、マウスモデルでの有効性を確認した論文。アピラーゼは改変ヒトP2Y2受容体センサーでeATPを感知後に発現するようにエンジニアリングされており、過剰な分解物が線維化を誘導することを防ぐように設計されている。
著者プロフィール
- 西園啓文
- 金沢医科大学、講師。専門はゲノム編集による遺伝子改変動物の作製と、哺乳類受精卵の発生過程における卵管液成分の作用メカニズムの解明。小説執筆は2015年前後から開始し、現在もwebで活動中。サイエンスイラストレーターとしても活動している。