第06回『アイにすべてを』
深夜十時を回った実験室兼大学院生部屋では、マイクロピペットやパソコンのキーボードを押すカチカチという音すらも消えてしんと静まり返っている。大学院生の居室と言っても、実験室の壁際にいくつかデスクを置いて、申し訳程度の間仕切りがあるだけの簡素なもので、都会の指定国立大学であればおしゃれなデザインの机がきれいに並んでいるのかもしれないが、地方大の昔からある古臭い研究室にはこれが精いっぱいだった。
部屋全体の明かりも消えているなかで、一台だけデスクトップパソコンのモニターの光が点いていて、その前でもそもそと何かを頬張る若い男が一人。
ここのところ忙しくしていたせいか顎と口元には無精ひげが目立つようになっていて、黒のポロシャツの肩の部分には雲脂が見える。男はノイズキャンセル機能付きのヘッドホンをつけたままモニターをじっと見つめていて、誰かが自分に近づいているのを気づいていない。
「こら! 実験室兼用だから院生部屋での飲食は禁止って言ってるだろ。食べるなら向かいのセミナー部屋にって、何、アンタ、泣いてるの?」
後ろから近づいた若い女が、男のヘッドホンを取り上げて、のぞき込むように言う。
「さ、佐野さん!? いえ、何でもないです。すみません」
男は慌てて目元を拭って何とか取り繕おうとしたものの、佐野と呼ばれた女性は自分の方ではなく、モニターの方をじっと見つめている。
「あー……学振かぁ」
モニターには日本学術振興会特別研究員の審査結果が表示されている。特別研究員制度は優れた若手研究者の養成・確保のための制度で、採択されれば毎月研究奨励金が支給されるというものである。画面は不採択であったことを告げている。
「……俺、研究者に向いてないんですかね?」
男はうつむいてつぶやく。
「さぁ? 私は鈴木ではないし、アンタのメンターってわけでもないし」
佐野は遠慮する様子もなく、ずけずけと言い切る。
「もう少し言い方考えて下さいよ……」
佐野の言葉に鈴木は自嘲気味に笑う。
「じゃあ、鈴木は私が『研究者に向いてないよ』って言ったら、大学院辞めるの?」
「それは!」
鈴木は思わず椅子から立ち上がって言い返す。そのはずみでどこかのガラス器具メーカーが販促品として配っていったボールペンがデスクの上から床に転がり落ちる。佐野はそれを拾い上げて、「ふーん」と言いながらくるくると回す。
「別に『学振に落ちても研究者になった人はいっぱいいるよ、気にしないで頑張ろう』って言ってほしければ、いくらでも言ってあげるけど、それで満足?」
「だから、もう少し言い方を」
憤る鈴木の言葉を遮って、佐野が続ける。
「本当に研究が好きで、まだ大学院に残って研究続けたいって思ってるなら、必要なのは励ましの言葉とかじゃなくて、この一年間次のDC2の採択結果が来るまでの一年間をどうやって暮らしていくのかってことについての意見ってやつじゃないの?」
佐野はボールペンを鈴木に手渡すように向ける。
「教授にリサーチアシスタントやティーチングアシスタント、それに今度から始まる大学院生向けの別の支援の話を聞きに行ったり、企業や財団がやってる奨学金の情報は学生課に行ったり」
「えっ」
鈴木は驚いてそれ以上の言葉を見つけられないでいる。
「私も落ちてるし、DC1。そういう話なら、少しは付き合って上げれるけど?」
佐野は早く受け取れと言わんばかりに、手にしているボールペンをひらひらと動かす。
「ま、アンタがそこまで『研究を愛してる』ならだけどね!」
佐野が整った顔の口角を大きく上げて意地悪そうに笑う。その顔とそういう意味ではない『愛してる』の言葉を変に意識してしまい、鈴木はドキドキしながら落とした自分のボールペンを受け取る。
「あと、教授は実家が『太い』からこの手の話は参考にできないけど、講師の
「あ、そうなんですか」
鈴木は、ついこの間着任した痩せた講師の顔を思い浮かべる。確か、任期付きの研究員を何度か渡り歩いてたって話だったはずだ。鈴木は(明日にでも聞いてみるか)と思いながら、渡されたボールペンをデスクの引き出しにしまう。
「……しっかし、汚いわね、アンタの机」
「は、はぁ。すみません」
鈴木はバツが悪そうに、机いっぱいに広がったコンビニのおにぎりやスナックの袋を片付けようとする。佐野はその様子をみて「うーん」と唸る。
「……最近、どのくらい一人で悩んでたの?」
「何ですか、急に?」
鈴木はきょとんとして聞き返す。
「いや、集団飼育していたショウジョウバエを急に単独飼育すると、すぐには影響でないんだけど、さらにその孤独な環境が続くと、P2ニューロンの活性化を通じて、代謝関連遺伝子の発現が変化し脳が飢餓を感じて、睡眠時間が減ったり、餌の摂取量が増えたりするって論文が、最近Natureに出たのよね。もちろんショウジョウバエの現象がすぐにヒトでの現象につながるものではないのだけど」
「え、何ですか、その面白そうな話」
と、即答する鈴木に、今度は佐野が一瞬きょとんとしてから、大声で笑いだす。
「あははは、何それ。心配してあげて損した」
「え!? 今の心配してたんですか? わかりにくすぎるんですよ!」
鈴木がそう返すと、佐野は笑いながらばんばんと鈴木の背中を叩く。
「あー……笑った、笑った。そんな感じで良いんじゃないのかな。鈴木君、最近誰とも研究の話もしてなかったでしょ? ちょっと心配してた」
「それはどうも」
ついさっきまで何も意識していなかった2つ年上の白衣姿の女性が、急に艶かしく見えてしまい、鈴木は仄かに赤くなった頬をごまかすように視線を逸らす。
「ところで、鈴木君」
「な、何ですか?」
今度は突然真面目な口調で話しかける佐野に、鈴木は驚いて答える。
「さっきの話なんだけどね、群飼いしてるハエのP2ニューロンを活性化しただけでは睡眠時間の減少も過食も起きないらしいんだよね。でも、P2ニューロンをサイレンシングすると、孤独を感じても睡眠時間の減少や過食は起きない。加えて、P2ニューロンを活性化すると、1日の隔離でも慢性的な孤独と “誤認” する」
「めちゃくちゃ面白いじゃないですか! じゃあ、『孤独』の正体って何で、どこで感じてるのかっていう」
「そうそう!」
二人がさっきまでの話題を特別研究員に落ちたということをもうすっかり忘れてしまったように、盛り上がっていると、突然、実験室兼大学院生部屋のドアが勢いよく開き、
「お前ら! 何時だと思ってんだ! 深夜のラボでいちゃいちゃするんじゃねぇ! 早く帰れ!!」
准教授が怒鳴り込んでくる。そういえば、ここ数日は研究費の申請締め切り前でピリピリとしていたはずだっけ、と鈴木が謝りながら思い出していた。
「佐野さん、俺、明日すぐに六月灯先生に相談に行ってみます」
真っ暗な大学の前の長い坂を二人で歩きながら、鈴木は落ち着いた顔で話す。
「良いんじゃないかな? 色んな人に相談すると良いよ。もちろん、私も協力する」
佐野もつられて少しだけ笑顔で答える。
「生活費とか学振のことだけじゃなくて、ちょっと研究のことでも機械学習とか使った手法も始めてみたいなとか、まだ漠然と考えてただけですけど、相談してみます」
佐野は、鈴木の言葉を嬉しそうに聞きながら歩く。辺りはすっかり秋になっていて、透き通るような虫の音が響いている。
「……あのさ、『愛にすべてを』って曲あるだろ? Queenの。あの歌詞の主人公ってちょっとだけさっきの研究と似てるんだよね。強い孤独を感じていて、リズムも失っていてだからどうというわけではないのだけど、君は周りの人間と、研究のことでも、日常の他愛のないことでも、もうちょっと話をするべきなんだよ」
そういいながら、振り返った佐野の髪が勢いでばらけて、その一束一束が月明りに照らされてきらきらと輝く。それを見た鈴木は今度は確信を持って目の前の女性を綺麗だと思った。もう少し研究を楽しんでみようと思いながら。
(了)
Li W, Wang Z, Syed S, Lyu C, Lincoln S, O’Neil J, Nguyen AD, Feng I, Young MW. Chronic social isolation signals starvation and reduces sleep in Drosophila. Nature. 2021 Sep;597(7875):239-244. doi: 10.1038/s41586-021-03837-0. Epub 2021 Aug 18. PMID: 34408325; PMCID: PMC8429171.
ショウジョウバエで慢性的な社会的孤立が睡眠を減少させることを報告した論文。慢性的な社会的孤立は、代謝関連遺伝子の発現を変化させ、睡眠を減らし、摂食を促進する。これらのニューロンを人為的に活性化させると、急性の社会的孤立を慢性のものと誤認させ、それによって睡眠の減少と摂食の増加が起こることを示した。
著者プロフィール
- 西園啓文
- 金沢医科大学、講師。専門はゲノム編集による遺伝子改変動物の作製と、哺乳類受精卵の発生過程における卵管液成分の作用メカニズムの解明。小説執筆は2015年前後から開始し、現在もwebで活動中。サイエンスイラストレーターとしても活動している。