第07回『老人とリボソーム』
彼は老いていたで始まる小説のことを思い出していた。それは学校の授業のなかの小説だったけれど、同時に少女はその結末を思い出せないでもいた。
暦の上では春になっていたものの、窓の外には数年に一度という寒波のせいでこの辺りでは珍しい高さにまで雪が積もっていた。それも今日は止んでいて、久しぶりの太陽の光であらゆるものがきらきらと輝いている。
そのなかにあって、けして広くはない病室の窓際に置かれたベッドの上で、一人の老人が足を投げ出したまま上半身を起こして座っている。老人の額や首筋には皺が深く刻まれていて、緩くウエーブのかかった頭髪はすっかり白くなっている。左手の小指の第一関節が変な方向に曲がっているのは、若い頃に仕事で痛めたものだとだいぶ前に言っていた。それらの年齢を感じるものとは対照的に、脂で汚れた老眼鏡の奥の両眼だけが二十代の若者のそれのように輝いていた。
「おじいちゃん」
夕暮れが近くなって少女が老人に話しかけると、老人は「何だい、サクラ」と手元の書類の束を見ながら答えた。それは少女の母親の名前だった。
「あたし、もう帰るけど来週は何か持ってくるものある?」
以前は何度も自分の名前を老人に言って聞かせていたものの、最近はその間違いを訂正することもない。十三歳の少女の心のなかで、祖父がどういう状態なのかということについてもう折り合いがついているのだ。スマートフォンで、両親にこれから帰宅することを伝える。
「新しい論文を何でもいいから一つ。研究室の誰かにプリントアウトしてもらって」
祖父は決まって毎回そう答えた。
母の言いつけで毎週この病院に来ることになった最初の頃は、それがどういう意味なのかわからずに困惑もした。それもそのはずで、彼が大学の研究室で働いていたのはもう五年も前だし、もちろん論文を印刷してくれる誰かなんていやしない。
一般企業に勤める道を選んだ母が、大学と同じように海外の英文雑誌から学術論文を入手するのはそれほど容易とは言えず、祖父の言う “新しい論文” を、毎回数千円支払うことでダウンロードして、印刷して病院に持っていった。少女の家庭には両親と自分、それに弟と妹がいる。妹には身体的なハンディキャップがあり、母は会社から帰ると妹につきっきりになってしまうこともあって、それほど裕福というわけではなかった。
二月も中旬になったある日、病室には他の見舞客がいた。最近ではこんなことは全くなかったので、少女は驚いていた。五十代後半くらいの中背のスーツ姿の男で、ベッド横の病院が用意したパイプ椅子に座っている。祖父は横になったまま眠っていて、男性はその様子をじっと眺めていた。
「サクラちゃん?」
そのスーツの男性も少女の母親の名前を呼んだ。少女が否定すると「とてもよく似ていたものだから」と男性は頭を下げた。受け取った名刺には『鈴木』とあったが、少女にはどの鈴木さんなのかは当然わからない。
「お見舞いはよく来るのかい?……それは?」
男は少女が手にしていた英語で書かれた論文を指さして言った。
「ええ。母に言われて毎週。これは祖父に頼まれて論文をでも、もう祖父は読めていないと思います。前に持ってきたものもどこに仕舞っているのかもわかりませんし」
少女がそう答えるのを聞くと、男は何かを思い出したようにサイドテーブルの引き出しを開け、その後でベッドのマットレスの下を確認し、いくつかの紙の束を引き出してきた。男が「ほら、これ」と手渡してきた紙束は少女が以前持ってきた論文だった。何枚もの付箋が貼られていて、そこには汚い字で何か書いてある。
「大きな付箋に日本語で色々かいてあるだろう?
先生は先生はね、僕がまだ若い頃、『自分は英語があまり得意じゃないからこうやって付箋に和訳だったり、思ったことだったりを書きこんでいるんだ』と笑いながらよく言っていたものだよ。それでそんなところを学生やスタッフに見られたくないからと、読んだ論文を見つかりにくいところに隠してああ、
そう優しい口調で言う男の目には涙が浮かんでいて、きっと若い頃の祖父と現在の姿を比べてしまっているのだろう。少女は彼らの思い出の邪魔をしないように、何も答えずただ祖父の書いた文字をぼんやりと眺めていた。
見舞客が帰ってから少し経って、目を覚ました祖父は「サクラ、論文はもってきてくれたかい?」と相変わらず少女の名前を間違えたまま言った。先ほどの男の話がどこか残っていた少女は、論文を手渡しながら「この論文にはどんなことが書かれているの?」とそれまでに聞いたこともないことを尋ねてみる。
「そうか……ごめんな、サクラ。お父さん、最近あんまりお話してなかったな」
祖父は一瞬驚いたような顔をすると、すぐに皺だらけの顔をもっとゆがめて微笑んだ。そういえば母親が、まだ子供だった頃の思い出話として、楽しそうに研究の話をする祖父の話をしていたのを思い出す。そんなことさえも忘れてしまっていたのは、心のどこかでこの目の前の老人のことを疎ましく思っていたからなのかもしれない。
「先週持ってきてもらったこの論文はそうだな歳をとるにつれて、タンパク質の恒常性、いつもと同じ機能を持ったタンパク質がいつもと同じようにある状態を維持する能力も低下してしまう。
これは加齢によって進行する深刻な病気の原因にもなるんだけれども、リボソームというタンパク質を生産したり、折りたたんだりする細胞内構造体の機能が低下するために起こると考えられてはいるものの、その詳しいメカニズムはわかっていない。
そこで彼らは、加齢するとリボソームが特定の塩基性アミノ酸の多い領域で停止することが増えることを見つけて、それが引き金になるのではないかと考えたんだ。
例えば、一つのリボソームが特定の場所で停止していると、後から来た次のリボソームと衝突してしまう。その状態では異常なタンパク質が作られてしまうから、通常ならリボソーム関連品質管理機構(RQC)という仕組みで速やかに排除される。でも、老化でこのRQCの処理能力を超えた停止・衝突が起きると、衝突したリボソームや作られていたタンパク質は排除されることなく、異常な状態で生産・凝集してしまうということを酵母と線虫という2つの生物を使って、実験的に示したんだよ」
おそらく彼が大学で教壇に立っていたときもそうだったのだろう、ゆっくりと穏やかな口調で説明する。その皺だらけの顔は笑っているようにも見えた。しかし、その説明も十五分ほどで終わり、祖父はまるで何かのスイッチが入ったかのようにベッドの上のシーツを自分で整え、横になる準備を始める。
「私が研究者になって老化の研究をしたら、 “おじいちゃん” の身体もよくなる方法もみつかるかしら」
久しぶりに祖父の話をまともに聞いた少女は、手元のスマートフォンを操作しながら、思ったことを素直に口にする。もちろん返事が返ってくることなど期待してはいない。
でも、それは少しだけ予想と異なる結果になった。
「ああ、そうだねミチル。それは楽しみだ」
何年も呼ばれたことのなかった “自分の名前” に驚いて顔を上げると、祖父はもう横になっていて目を閉じていた。そこにちょうど二月のまだ弱々しい夕日がさして、老人の顔を照らし深く刻まれた皺が強調されると、さらに穏やかな顔になった。あるいは、自分が聞いた先ほどの言葉は幻だったのかもしれない。少女はそのまま問い返すことなく病室を後にした。
それから数カ月が過ぎて春も終わり夏の近づいたある日、祖父は静かに息を引き取った。多くの弔問客が訪れて、皆、彼の大学での仕事ぶりを褒め、そしてその死を悼んだ。
亡くなるほんの数日前、祖父はその前々日の晩から病室に泊まっていた母に向かって、「今日はナメタガレイの良いのが手に入ったから、これを煮てる間にお父さんの研究のお話をしよう」と一言だけ、しかしはっきりと微笑みかけた。突然のことに驚いた母が祖父の小指の曲がった左手を取って、何度も何度も「そうだね、そうだね。もっと研究のお話が聞きたいよ」と泣きながら頷いていた。
きっと夢を見ていたのだろう。
それも大学教授として何人もの研究員に囲まれた頃ではない、まだ小さな娘と隙間風の吹く安アパートで絵本の代わりに話していた楽しい研究の話を。少女はそれをほんの少しだけうらやましいと思ったのと同時に、あの小説の結末をようやく思い出していた。
(了)
Stein KC, Morales-Polanco F, van der Lienden J, Rainbolt TK, Frydman J. Ageing exacerbates ribosome pausing to disrupt cotranslational proteostasis. Nature. 2022 Jan;601(7894):637-642. doi: 10.1038/s41586-021-04295-4. Epub 2022 Jan 19. PMID: 35046576.
加齢性タンパク質ミスフォールディング疾患の根底にあるタンパク質恒常性の破綻について、加齢による特定領域でのリボソームの停止の増加と、それによるリボソーム関連品質管理機構(RQC)の過負荷と新生ポリペプチドの凝集が原因であるかどうかを、酵母と線虫を対象にRibo-seqなどの実験を用いて検討した。
著者プロフィール
- 西園啓文
- 金沢医科大学、講師。専門はゲノム編集による遺伝子改変動物の作製と、哺乳類受精卵の発生過程における卵管液成分の作用メカニズムの解明。小説執筆は2015年前後から開始し、現在もwebで活動中。サイエンスイラストレーターとしても活動している。