第10回『大学落語:所定様式第四号の三・手書』
日本海側のとある国立大学。ここには一風変わった講義がある。
講義とは言ってもシラバスのなかの単位ではない。その始まりがどのようなものであったか、もう誰も覚えていないという。それでも五限目が始まる時間になると、来年には建物の改築で閉鎖が決まっている古びた大講義室はがやがやと学生で埋め尽くされていく。
“すり鉢” の底にある教卓に向かって一人の男がすたすたと雪駄をならして歩いていく。
中肉中背でこれといって特徴のない丸顔の男で、真っ赤な縁をした眼鏡が余計に目立っている。途中、学生が男の名を呼ぶとそれが本名なのか、あるいは屋号のようなものなのかはわからないが男はにっこりと笑顔を浮かべ、手をひらひらとして応える。
やがて教卓の前まで来ると、男は教卓の上に座布団を敷き、ひょいっとその上に飛び乗る。それを合図にしていたように、後ろの席の学生が頼まれもしないのに、教室の明かりを教卓の前を残して落とす。
一、
さて、皆様お変わりありませんでしょうか? こうやってまた、皆様の前に立てるのをとてもうれしく思います。いや、なにせね。私みたいな非常勤講師ってやつは休みが多くなると暮らしていけなくなるってもんでして。昨今の厳しい大学の懐事情というか、なんというか……雇止めなんていうこともあるわけでしてね。
私もそうだったんですが、大学という職場で働こうとしますと、普通の就職活動とは少し違って、履歴書以外にも研究計画書とか、業績集なんてものを書いて、それを相手先の大学に送って、それを元に面接をして採用するかどうかを決めるということになります。
いわゆる『教員公募』、というやつです。まぁ、コネだのネコだの色々とあるみたいな噂が今も昔も流れるものです。私はまだマシなようですよ、ええ。私はまだいわゆる「任期なし」ってのを経験したことがない身ですから、本当の大変さがまだわかっていないのかもしれないですがね。
さて、今日はそんな『教員公募』に関わる噺を一つ。
二、
あるところに、今年めでたく大学院博士課程を修了する予定で、「よしっ、俺は大学で研究者になるぞ!」という勢いのある若い学生がおりました。その学生さん、なにぶんにも大学へ向けての公募書類を書くなんてことは初めてですから、これまでに何通も書いているベテランのポスドクさんのところに書き方を習いに行くことにします。
「ポスドクさーん、ポスドクさーん」
そう言いながら、学生さんは徹夜続きで研究室の端でダンボールを敷いて寝ているポスドクさんに声をかけます。
「なんだい、朝早くから。こっちはね、昨日の徹夜の実験でまだ眠たいんだよ。静かにしておくれ」
このポスドク、実はずぼらな性格が祟ってアパートの電気が止められているだけで、特に実験を夜中しているわけでもないのに偉そうにそう応えます。
「いえね、ポスドクさん。私もこの度、初めての教員採用公募に出してみることになりまして。ただ、恥ずかしながら、公募書類のこの『所定様式第四号の三』というやつの書き方がわからず、そこでポスドクさんに聞いて書こうと思いまして」
人間、頼りにされると無碍に断れないものです。ポスドクさんはすっかりと乗り気になってしまいます。
「なんだい、なんだい。そういうことなら、可愛い後輩のためだ。よし! 一つ教えてやろうじゃないか」
ポスドクさんはそういうと自分のデスクに戻り、スリープ状態にしてあったパソコンを立ち上げ、早速、自分が過去に作った公募書類の雛形ファイルを開きます。
「いいかい、公募書類なんてものは、ほとんどの大学の教員公募で同じような様式を使っているんだ。これを『文部科学省教員個人調書様式第四号』という。そうだねぇ、だいたいの大学では所定様式第四号ともいう。どこの大学だってほとんど同じ様式を使っているのだから、一度書き方を覚えてしまえば、次からも同じように書いていけばいいのさ……じゃあ、私が最初から尋ねていくから、それにお前が答えて、それを私がファイルに記入するってことでいいね?」
そういうと、ポスドクさん几帳面に最初から聞いていきます。
「名前は? ……ああ、博士太郎だったね」
「じゃあ、住所は?」
ポスドクさんの目の前に座ってるのは、幼稚園児ではなく来年の春には博士号を授与される学生です。「あの……そんなところは自分で書きますんで、肝心の研究業績や抱負なんかの書き方教えてもらえませんか?」と、学生さんは呆れて返します。
「ああ、そうかい、そうかい。わかったわかった。じゃあ、細かいところは飛ばして重要な所定様式第四号の三・教育研究業績書から書いていこうじゃないか……せっかちな野郎だねぇ、まったく」
ポスドクさんはふぅと大きく息を吐いて別のファイルを開きます。
「じゃあ聞くよ? 原著論文は?」
学生さんはもじもじして「……さ、3報です」と今までに書いてきた論文の数を答えます。
「なんだい、それしかないのかい? よくもまぁ公募に出そうと思ったもんだよ。じゃあ次、著作とか……招待講演とかあるかい?」
学生さんの論文数が教員公募に出すにあたって多いのか少ないのかなんてことは研究分野や応募先の職位によって変わることなのですが、ポスドクさんは意地悪くため息をつきます。
「ありません」
もう一度ダメ押しのポスドクさんのため息。
「……『なし』っと。海外での学会発表は?」
てな具合で、空欄を埋めていきます。それも佳境に入り、いよいよ最後の質問です。
「さてと、次も重要なところだ。『実務家教員としての特記事項』は何かあるかい?」
「実務家教員? ポスドクさん、そこは何を書くんですか?」
聞きなれない言葉にきょとんとした学生さんに得意気なポスドクさんが返します。
「なんだ、そんなこともわからないのかい。ここはねぇ、一番重要なところなんだ。アタシなんかだと、そうだな、この間出した公募書類には『○○県ビジネスグランプリ奨励賞』なんて書いたね。どうだい、何かあるかい?」
説明になってるような、なっていないようなポスドクさんの答えを聞いて「いや、ちょっと無いですね……」と学生さんが言うと、「そうか、そうか」とどこか嬉しそうにポスドクさんが返します。このポスドクさん、悪い人間ではないのですが、とにかくこういう意地悪なところが玉に瑕といった人物でした。
三、
「じゃあ、最後だ。この『文部科学省所定様式第四号の三』ってやつはね、手書きで書いた方が、気持ちが伝わるってもんだ。ほら、今記入したものと、空欄のものを両方印刷してあげるから、手書きで書いてみな」
と、ポスドクさん。
「え!? あの、今どき流石に手書きは……」
と、学生さん。
「かやだねぇ、こういうのは “勢い” なんだよ。勢い。何度も書いてるアタシが言ってるんだから、間違いないんだよ!」
それでも納得のいかない様子の学生さんはぶつぶつと言っていると、そこへ二人の研究室の教授がやってきます。
「珍しい組み合わせですね。何しているんですか? ……ああ、教員公募書類ね。それで、何でまたポスドクさんに聞いてるんですか?」
学生さんが答えます。
「ポスドクさん、何度も出しているって聞きましたので、書き方を参考にしようと」
すると、教授はははぁんと何かを察したような顔をしてこう言います。
「……お二人とも今週のNatureを見ましたか? 出芽酵母のイントロンの話です」
二人はぽかぁんとして「いいえ」と申し合わせたように答えます。
「酵母に浸透圧ストレスを与えると、転写産物の5' 非翻訳領域のイントロンによって、リボソーム小サブユニットタンパク質Rps22Bの発現が二峰性になります。このRps22Bというのは飢餓状態での応答に関与しています。
つまり、浸透圧ストレスがイントロンを介してRps22Bの発現を変化させ、結果として2つの集団が発生し、それぞれの集団は飢餓に対処する能力が異なっている。さらにこの現象は、糖濃度の高い環境で増殖する場合にも起こります。イントロンを介した応答により、過酷な環境に対応する多様な集団を生み出しているということですね」
まだぽかんと口を半開きにしている二人のうち、学生さんが先に質問します。
「……あの、先生。何で今この話を?」
教授はにこりと笑ってからこう言います。
「教員公募という長く苦しい環境にさらされると、様々な応答を示してしまうというのは仕方のないことなんですよ。でも先ほどの酵母の話から考えてみれば、“どの方法が客観的に見ればよかったのか” なんて、それぞれの酵母集団にはわからないとは思いませんか? 少なくとも他の集団のことを知りえない限りは。それに」
「それに?」
二人が声を揃えて返します。
「最初のイントロ(導入)が大事ってね。お二人とも研究者としてのキャリアは始まったばかりですから、ここで変な “癖” をつけずに准教授先生や他の上手くいってる人のお手本を吸収して下さい」
学生さんとポスドクさんは顔を見合わせてから、仲良く准教授の先生のもとに向かっていきましたとさてなわけで、今日はこれまで。
(了)
Lukačišin M, et al:Nature, 605:113-118, 2022
出芽酵母が環境ストレス下におかれると、イントロンによる調節を受けRps22Bの発現が二峰性になることをisogrowth profiling法と単一細胞タンパク質測定法を使い明らかにした論文。正確な遺伝子発現を維持しながら、過酷な環境に対応する多様な集団を生み出すことが可能であることがわかった。
著者プロフィール
- 西園啓文
- 金沢医科大学、講師。専門はゲノム編集による遺伝子改変動物の作製と、哺乳類受精卵の発生過程における卵管液成分の作用メカニズムの解明。小説執筆は2015年前後から開始し、現在もwebで活動中。サイエンスイラストレーターとしても活動している。