第11回『その大学にはきっと雨が似合う』
一、
僕には最近気になっている人がいる。
彼女を見るのはいつもまだ通勤電車が学生で混み合う前の時間で、何故だか僕の勤める大学の古い門をじっと見上げている。新型コロナウイルス感染症への対策でマスクをしていて顔半分が見えないということを差し引いても、きれいな顔立ちをしていることがすぐにわかる。
この話を職場の同僚に話すと決まって「話しかけないの?」という反応が返ってくるのだが、何となく本当に何となくそういうものではない感じがして、こうやって七月の終わりの土曜日に、ただぼんやりと、来るかもわからない見ず知らずの彼女を待っている。おそらくは単なる好奇心でしかなくて、彼女が(何故、この大学の前で足を止めるのか)ということを解明したいという、生業である研究者の心根のようなものかもしれない。
その日も、もう少しでその古い門の脇にある喫茶店が開くから、珈琲を飲んで帰るかそう思っていると、ぽつぽつと雨粒が落ちてきた。天気予報では今日は終日晴れだと言っていたし、空を見上げてみてもそれほど雲は見当たらない。それでも雨脚は少しずつ強くなってきたので、僕は早めに喫茶店に向かうことにした。
すると、そこにあの彼女がいる。
雨を気にする様子もなく、胸のあたりまである黒髪を頬に貼りつかせながら、僕の勤める大学に向かって歩いている。
「あの、今日も行くんですか? 雨ですよ?」
僕はあまりにびっくりしたせいか、思わず声をかけてしまう。彼女もびっくりしたように目を見開いて(明らかにこちらを訝しがった後で)、か細い声で答える。
「……雨だから行くんです。あの大学にはきっと雨が似合うから」
「えっ?」
僕は返事がくるとは思ってなかったので、驚いて少し大きな声を出してしまうと、彼女は一瞬身を竦めて「すみません、急ぎますので」と顔を伏せて歩き出そうとする。しかし、ちょうどそれと同時に、雨がわっと本降りに変わり、彼女も呆然と足を止める。
「……とりあえず、そこで雨宿りしましょう」
そう言って、僕は彼女の細く白い手を取って、元々の目的地だった喫茶店に向かう。
「……あの、なんで?」
アイスコーヒーを二つ頼んだ後で、彼女がやはり小さな声で言う。
「あのままびしょ濡れで良かったですか?」
と、僕が意地悪く言うと「それは嫌ですけど」と、タオルで髪を拭いながら彼女が不貞腐れたように答える。このやりとりで少しは警戒が緩んだのか、それからぽつりぽつりと言葉を交わしていく。彼女が頑なにマスクを外そうとしないのには少し引っかかったのだけれど。
「どうしてあの大学に?」
「普段はどんなことをしているんですか?」
そんな他愛もないことを一時間くらい話していると雨が上がって、僕たちは店を出る。
それから、僕たちはお互いの連絡先さえ知らないのに、土曜日の午前中にいつもこの場所で会って話をするようになった。
何回目の土曜日だっただろうか。
僕は意を決して、彼女に「付き合ってもらえませんか」と告白した。でも、彼女は最初にあの雨のなかで見せたように目を見開いて、身体を硬直させ、うつむくと「……ごめんなさい」と消えるような声で答えて、そのまま逃げるように帰ってしまった。
そして、そのまま次の土曜日も、その次の土曜日も現れなかった。
僕は意外と失恋のショックというものがなく、少なくとも職場の同僚たちに世間話としてこの失恋話を話すくらいになった頃には、すっかり立ち直り、アメリカへの長期間のサバティカルも決まったこともあって、僕自身もあの大学に行かなくなってしまった。
二、
私には最近気になっている人がいる。
その人は、いつも近くにある有名な国立大学に向かう。歩道に生えている木々や飛んでいる虫を見つけては嬉しそうに写真を撮っている。私と同じでいつも一人なのに、ただただ楽しそう。私に毎日の散歩をすすめてくれたカウンセラーの先生にこの話をすると、「話しかけてみたら?」というのだけれど、そんなのは無理。そもそもそのことでカウンセリングに通っているのだということを忘れてる。私は見かけるだけで良いんだ。
私がいつもと違う道に寄り道をしてからあの大学に向かっていたある日突然振り出した雨に、私は急いであの赤い門に向かう。あの門の古い瓦が降り始めの小さな雨粒を弾くのが大好き。いつもの晴れの日とは違う、心が少しだけ軽くなる日。
そこで、彼に会った。
「あの、今日も行くんですか? 雨ですよ?」
「……雨だから行くんです。あの大学にはきっと雨が似合うから」
話しかけられてびっくりしたのと、嬉しかったのがゴチャ混ぜになって、私はよくわからない返事をしてしまう。
「えっ?」
彼の大きな声が自分に向けた暴言ではないことは頭ではわかっているのに、身体が反応して動かなくなる。そんな自分が嫌で、早くここから逃げようそう思った。でも、急に雨がさらに強くなると、彼は私の手を引いて近くの喫茶店へと入る。
「あのままびしょ濡れで良かったですか?」
「……それは嫌ですけど」
嘘だった。本当は嬉しくて、もっとおしゃべりがしたくて心臓がバクバクとうるさいくらいだった。それから私たちは何度も何度も話をした。たぶん、小学生の男女でももっとマシな会話をしているのではないかと思うくらいの他愛のない話。それでも、私にはそれで十分だった。
「付き合ってもらえませんか」
それから四度目の土曜日に、彼は私にそう言った。嬉しかった。私はすぐに「はい」と声を出そうとすると、咄嗟に顔の傷のことを思い出す。あの事故はもう何年も前のことで傷跡も目立たなくなったというのに、こうやって私を縛りつけている。
「……ごめんなさい」
私はそうやって、またいつものように逃げる。彼に会わないようにと何度かの土曜日をあの大学に行かないようにしていたら、いつの間にか彼はもう現れなくなってしまっていた。
三、
やっと日本に帰ってきたその日は、都心でも珍しく雪が積もっていた。
アメリカにいる間に世界は大きく変わってしまって、現地で知り合った友人の幾人かはその大きな渦に巻き込まれて大変な目にもあったりした。僕自身もそれらの影響を少なからず受けたのだけれど、縁があって、日本で新しい職場に移り、自分の研究室を立ち上げることになっていた。それで、退職の手続きと荷物の整理にと、あの大学に二年ぶりに足を運ぶことにした。
すると、そこにあの彼女がいた。
あの日のまま、遠くからでもはっきりとわかるようなきれいな横顔で。声をかけようとも思ったものの、自分は一度ふられているのだし、と僕は自宅に帰るためにバス停に向かう。
「あの! ……どうして、来なくなったんですか?」
彼女から声をかけてきたことに驚いて
「仕事でアメリカにいて」と僕が答えると、彼女は「よかった」と笑う。そして、突然
彼女はこれまで頑なに外そうとしなかった自分のマスクを外す。
「やっぱり醜いですか?」
彼女はうつむいてそう言う。口元に大きな傷跡があった。彼女は自身が体験した大きな事故の話を続ける。その傷が原因で外出するのが難しくなり、次第に他人に心を塞ぐようになってしまったことも。僕はしばらくの間、それをじっと黙って聞いていた。
「……いや、全然醜くないです。僕はてっきり嫌われているのだと思ったけどそれに、記憶の研究は今信じられないくらいのスピードで進んでいるんです。例えば最近も、HIVウイルスの感染に関与してるCCR5っていう遺伝子が海馬のdCA1という領域で神経活動に遅れて発現することで、記憶と記憶の連結される時間枠を作っていることがNatureって雑誌に報告されました。このCCR5って加齢によって増加するんですけど、それが歳をとってからの記憶同士の連結を阻害していて、これはCCR5阻害剤で治療できる可能性も見出されててですね……と、何言ってるんですかね、僕は」
僕は喉元で渋滞する言葉たちを焦るように吐き出して自分のマスクも外す。彼女はクスクスと笑いだす。僕は「すみません、変な話してしまって」と頭を掻く。
「いえ、違うんです。熱心なんだなって。それに、前にあんなに話していたのに、お互い素顔をちゃんと見るの初めてなんですもん。でも、みんなマスクが外せない今は、きっとこれが特別な意味を持つのですね」
そう言われると突然恥ずかしくなって、顔が上気してくる。
「あなたが来なくなってから、ずっと何度も考えていたんです。今までの他人への恐怖心を乗り越えて、ちゃんと勇気を出してあなたに伝えられますように、って」
タイミングを合わせたかのように小さな雪粒がひらりひらりと舞い落ちてくる。
「前に『この大学には雨が似合う』って言ってましたよね。でも、きっと晴れの日も、雪の日も似合いますよ。僕はそれを一緒に見たい」
僕がそう言うと、彼女は今までで一番の笑顔を浮かべるのだった。
(了)
Shen Y, et al:Nature, 606:146-152, 2022
HIV感染の際にも関与する免疫受容体CCR5(C-C chemokine receptor type 5)が背側海馬CA1領域で記憶と記憶の連結の時間枠を負側に決定していることをマウスで実験的に明らかにした論文。加齢に伴いCCR5が増加することで記憶同士の連結が障害されることも示した。
著者プロフィール
- 西園啓文
- 金沢医科大学、講師。専門はゲノム編集による遺伝子改変動物の作製と、哺乳類受精卵の発生過程における卵管液成分の作用メカニズムの解明。小説執筆は2015年前後から開始し、現在もwebで活動中。サイエンスイラストレーターとしても活動している。