匂い受容の研究から出力判断の研究へ
坂野 仁 これまで一次投射の研究を中心に,嗅覚神経地図がどのように形成されるのか,その基本原理を明らかにした研究の舞台裏をお話ししてきました.そのころ森先生はどのように嗅覚研究を進めておられたのでしょうか? 匂い地図の研究がその後どのように発展したのかについてもう少しお話し願えませんか.
森 憲作 前回お話ししましたように,私たちの研究室では嗅球の匂い地図の詳細を調べるとともに,「匂い情報が,高次皮質である嗅皮質へどのように送られどのようにプロセシングされるか」という問題の解明にとり掛かりました.ご存知のように,嗅球から嗅皮質へと軸索を送る投射ニューロンは,深層部にある大型の僧帽細胞と浅層部にある小型の房飾細胞に分類されます1)〜3).そこで私たちの研究室では,「僧帽細胞と房飾細胞は嗅球の匂い地図情報を嗅皮質へと送るにあたって,どのように役割分担しているのだろうか」という問題にとり組むことにしました.永山晋さん,高橋雄二さん,五十嵐啓さんらが,同じ匂い刺激に応答する僧帽細胞と房飾細胞の発火パターンを比較し,発火頻度や匂い分子受容範囲や側方抑制の程度などが異なることを見出したのですが4),ここで予想外だったのは呼吸サイクルと関連した発火のタイミングが異なることでした.
ヒトでも動物でも外界の匂いを嗅ごうとするときには,意識してクンクンと鼻に空気を吸い込みます.その結果,鼻腔の嗅細胞が外界の匂い分子を受容し活動電位に変換して嗅球へと伝える期間は,呼吸の吸息相に限られます.呼息相では,たとえ外界に匂い分子があっても,匂い分子が鼻のなかに入らないので嗅細胞は信号を出しません.私は,外界の匂い情報が吸息相でのみ嗅球へ入力することから,僧帽細胞も房飾細胞も吸息相で応答し,匂い情報を高次の嗅皮質へ送ると予想していました.実際にこれらの投射ニューロンを調べてみると,多くの房飾細胞は予想通りに匂い刺激に対し吸息相で高頻度の連続発火を示しました.ところが驚くべきことに,僧帽細胞の連続発火の開始はかなり遅れて吸息相の終わりごろに生じることがわかりました5).
大脳による吸息の指令は,大脳からの信号が延髄の呼吸中枢を介して脊髄の横隔神経を発火させることにより開始するのですが,呼息開始の指令は,横隔神経の発火を抑制して受動的に胸腔を縮ませることにより行われます.このことから房飾細胞の発火は,大脳が積極的に息を吸って匂い情報を得ようとしているときに起こり,そのときの入力シグナルは外界の匂い情報そのものを反映していると思われます.ところが,僧帽細胞は,大脳が吸息を終えようとするときになって高頻度で発火をはじめるので,どうも房飾細胞とは異なった機能をもっているのではないかと推測しはじめました.ただ,当時はいまだどのような機能差があるのか,よいアイディアは浮かんでいませんでした.
嗅覚神経地図における機能ドメインの発見
坂野 2000年代の中頃,匂い地図研究に大きな進展がありましたね.すなわち糸球マップに機能ドメインの考え方が加わったことです.それまで森先生は匂い地図を脂肪酸やアルデヒド,エステルなど,匂い分子でグループごとに分け,嗅球の反応領野を化学構造ドメインとして示して来られました2).また私共は当初,糸球マップが匂い地図を映し出す単なるデジタルスクリーンだと考えておりました.ところが嗅球の領野特異的な糸球体の除去実験によって,嗅球には嗅覚行動のカテゴリーごとに分けられる機能ドメインがあるのではないか,ということがわかってきました6).当時学位をとって研究員をしていた小早川高さんと令子さんが,嗅上皮の背側の嗅細胞を領野特異的にジフテリア毒素で除去した,いわゆるΔDマウスをつくりました.これには岡雄一郎さんの見つけたゾーン特異的に働くO-MACS遺伝子のプロモーターが使われました.このΔDマウスでは,空白になった背側の嗅上皮に腹側に有った嗅細胞が移入して来て,一見正常な嗅上皮に回復します.その頃,背腹軸に沿った軸索投射は嗅細胞の位置によって相対的に決まることがわかってきていましたので,私はΔDマウスで腹側から背側に新たに移入した嗅細胞の軸索が,嗅球の背側に投射するのか腹側に投射するのかを知りたいと思いました.すなわち,「投射に際し神経細胞の現住所が大事なのか本籍地が重要なのか」という問いに答える実験をしていたのです.結果は,嗅上皮において腹側から背側に移入した嗅細胞は嗅球の背側ではなく腹側に糸球体を形成し,本籍地が重要であることが判明しました.結局嗅上皮の環境因子ではなく,嗅細胞内でプログラムされていた内的情報が投射位置を決めているという結論だったのです.この結果を基に論文を書き上げた頃,前述のBuck博士がわれわれの研究室にやってきてこの話を聞き,ΔDマウスでは匂いの検出にどのような異常が出るのか,と質問してきました.私は森先生の匂い地図を念頭に,背側の糸球体に反応するケトンやアルデヒド等を嗅げなくなるだろうと答えました.Buck博士は,「この論文に行動実験を加えればもっとよくなる」と言いましたが,私も小早川さん達も結果が自明なのであまり食指が動きませんでした.
その後イタリアのMonterotondoで聞かれた学会で講演したところ,そこが欧州EMBLの実験動物研究センターだったので,行動実験の質問が相次ぎました.私は相変わらず気乗りしなかったものですから受け流していると,施設を案内してくれた女性教授が,「貴方は行動実験が心理学の領域で脳神経科学ではないと思っているでしょう,そう顔に書いてある」と言って笑いました.もう一人の社会行動学が専門の男性教授は,「米国に留学していたときの友人でKikusuiという日本人が君と同じ本郷キャンパスにいる.今晩にでも彼にメールしておくから帰ったら学生を送って行動実験を手伝って貰え」と食事のときに言ってきました.帰国してこのことを小早川さん達に話すと彼等も乗り気ではなく,しかし紹介してくれた人の手前放っておくわけにもいかず,困ってしまいました.「折角だから顔を立てると思って行ってくれ」と頼んで,当時獣医学教室に居られた菊水健史先生との協同研究がはじまったのです.
その後,森先生の研究室でいろいろと実験をやらせていただき,3カ月もしないうちにおもしろい結果が出はじめました.すなわちこのΔDマウスは先天的な忌避や恐怖行動をとれないのですが,匂いの識別や経験による忌避は正常に行えるのです.この結果はその冬のKeystoneミーティングの若手のセッションで発表する機会を得,一躍有名になりました.発表のあとすぐにAxel博士がやってきて,「詳しく話を聞きたいからランチを一緒に」と言うので小早川さん達や今井さん,竹内さんらに声をかけてテーブルを囲みました.Axel博士は矢継ぎ早にいろいろと質問してきました.最後に私が彼に,このような実験心理学のような論文は書いたことがないがどうしたものだろうと尋ねると,「高等動物の嗅覚系で,先天的な本能回路が学習回路とは別に独立して機能している事自体,充分に重要な発見だ」と言ってくれました.帰国後しばらくしてCold Spring Harbor研究所のZac Meinen博士から電話が入り,「あの学会発表のあと色んな人に,ΔDマウスの話を聞いたか,と聞かれるので直接会って話を聞きたい.いま和光の理研に来ているので30分後にはそちらに着けるから待っていてくれ」と言われました.彼は小早川さん達から話を聞いて,「最近Nature誌が行動学の論文を好んで出しているからそこに送れ」と助言してくれました.果たして論文はその年Natureのアーティクルに掲載され6),小早川さんが苦心して撮ったΔDマウスの写真やビデオとともに,イギリスのBBCやフランス国営放送,はてはカタールのアルジャジーラまで,世界各国のメディアで「ネコを怖がらないマウス」として報道されました.
こうして匂い地図は,匂い情報を画像展開するスクリーンであるのみならず,機能ドメインを含む二重構造をとっていることが明らかとなりました.この“事件”はわれわれ嗅覚研究者にとってかなりのショックだったわけですが,森先生はこれをどのように捉えて居られましたか?
森 嗅球から出発する先天的な本能回路が学習回路とは独立に働く(図1)という坂野先生のグループの実験結果を聞いて,私も大きなショックを受けました.同時に,「嗅球の神経回路はどのように匂い情報を処理するのか」という視点でのみ進めてきた私の嗅覚研究に,「嗅球の神経回路はどのように匂い情報を行動出力へと変換するのか」という新しい視点がつけ加わったことに,大きな勇気をもらいました.これから進めていきたいと考えていた嗅皮質の機能研究にも,行動出力との関連を考えながら解析するという新たな指針が付け加わりました.さらには,匂い入力に基づく行動判断は,動物が覚醒していなければできないので,大脳の睡眠・覚醒状態とも関連させて嗅皮質の神経回路の機能を考える必要があるとも感じました.
このような新しい視点のもとに,五十嵐啓さん,家城直さんらが,キツネの匂いのTMT(トリメチルティアゾリン)に応答性の糸球体から入力を受ける僧帽細胞と房飾細胞の軸索投射を調べました.彼らは,嗅皮質への投射パターンがこれら2つの二次細胞の間でどのように異なるのかを調べる目的で,微小電極でキツネの匂いに応答することを確認した後に,色素Biotinylated Dextran Amine をとり込ませてその細胞の軸索投射をすべて観察する試みを行いました.私は岸清先生と共同研究で1981年頃に,「個々の僧帽細胞や房飾細胞に色素を細胞内注入してその軸索全体を可視化しよう」と試みたことがあるのですが,上手くいきませんでした.それから30年後に五十嵐さんらは,軸索を全長にわたって染め出すことに成功し,房飾細胞と僧帽細胞は同じ糸球体から匂い入力を受けとっても,嗅皮質への軸索投射パターンを全く異にすることを見出しました5).
また,村上誠祥さんや津野祐輔さんは,大脳全体の睡眠・覚醒状態に依存した嗅覚の感覚ゲーティングを梨状皮質や嗅球の神経回路で見出し,覚醒・睡眠状態による嗅皮質神経回路の制御の研究のきっかけをつくりました7).
坂野 森先生のグループでは随分早くから二次投射の研究をはじめておられたのですね.ところで,2011年の3月はじめに八ヶ岳近くのホテルで東京大学の生命科学のリトリートがありました.その時,畳のうえにビール瓶を並べて森先生と話していたところ,「われわれがここでもう一頑張りしないと世界の嗅覚研究は30年遅れる」と仰いました.私も一次投射の研究が一段落して嗅球から嗅皮質への二次投射,さらには情動・行動の出力判断へと研究の軸足を移していたときでしたから,森先生の言葉は大きな励みになりました.また脳神経科学の現状を把握しこれからの方向を見極めるため,その年の12月に国際高等研究所に著名な研究者を集め,森先生や基礎生物学研究所の山森哲雄先生にも協力していただいて,脳神経科学の国際シンポジウムを企画しました.このクローズドの研究会はたいへん密度の濃いもので,「このようなレベルの高いミーティングが日本で開催できるなんて信じられない」とたいへんに好評でした.
行動出力のための先天的価値付け
坂野 私は2012年春に東京大学を定年となり,再び特別推進研究のサポートをいただいたのを機に二次投射のプロジェクトをもって,2013年の春から福井大学医学部(高次脳機能部門)に移りました.ちなみに私の実家は福井にあるのです.最初,マウスの移動や実験室の立ち上げ等で研究がしばらく停滞しましたが,一緒に追いてきてくれた若い人たちのおかげで数々の成果をあげることができました.
まず,井ノ口霞さんや竹内春樹さんらが僧帽細胞の分別と軸索投射に軸索誘導分子Nrp2が主導的にかかわることを見出しました8).僧帽細胞には嗅球腹側に配向するNrp2陽性(Nrp2+)なサブセットと背側にとどまるNrp2陰性(Nrp2-)なサブセットが存在し,前者は扁桃体の誘引的社会行動を指令する扁桃体の内側核の前方部に,後者は忌避を発動させる皮質核の後半部に投射するのです(図2).事実,Nrp2を僧帽細胞特異的にノックアウトすると,匂いを介したオス-メス間の誘引行動や母子間の愛着行動が阻害されます.一方Nrp2-な僧帽細胞に外からNrp2遺伝子を導入し強制発現させると,本来は忌避回路に加わるはずのOCAM陽性な背側僧帽細胞が腹側に移動し,扁桃体の内側核前方部に投射するようになるのです.これらの実験は,Nrp2というたった一つの軸索誘導分子の発現の有無によって,好きと嫌いの本能判断のための回路形成が支配されているという驚くべき結果を示しています.ちなみに匂いの質感は一次投射を介して,忌避すべき匂いは嗅球の背側に,誘引的な匂いは腹側に分別され,この仕分けにもNrp2が関与しているのです.すなわち,ここでみられる嗅球への一次投射と二次神経の嗅球内細胞移動のNrp2による共制御は,匂い情報が一次神経から二次神経へと正しく受け継がれるために重要だというわけです.ここでは糸球体内のシナプス形成において,一次神経と二次神経が互いの特異性を直接確認し合うのではなく,特定の機能ドメインに一次神経が軸索を投射し,対応する二次神経がそこに移動してくることにより,シナプス形成のためのマッチングが担保されているのです9).
次に齊藤治美さんの光遺伝学を用いた研究も,匂い地図の役割と先天的な本能行動の発動メカニズムに重要な知見をもたらしました.キツネの肛門腺から分泌されるTMTは齧歯類にとっての天敵臭として知られネズミ除けに市販されていますが,このTMTは嗅球の背側に少なくとも10以上の糸球体を活性化させます.ここで齊藤さんは,この発火する糸球体の組合わせパターンが脳に認識されて恐怖行動が誘導されるのか,もしくは,いくつかのキーになる糸球体があって,それぞれが固有な行動出力を指令するのかを調べました.具体的には,TMTに反応する嗅覚受容体を選び出し,その遺伝子にチャネルロドプシン遺伝子を組み込んだノックイン(KI)マウスをつくったのです.このKIマウスの嗅球に光照射すると,匂いリガンドがなくても特定の糸球体が発火し,それに接続する僧帽細胞を活性化して直接扁桃体に情報を送るのです.その結果,Olfr1019というTMTに反応性が高くリガンド選択性のよい嗅覚受容体のKIマウスが,光照射によってすくみ(freezing)反応を示したのです10).興味深いことに,このKIマウスは光照射によって忌避反応を示しません.これらの結果は特定の機能ドメインの僧帽細胞を刺激しさえすれば,それが単一の糸球体からの光入力であっても,決められた先天的行動を誘発すること,それには発火する糸球体の組合わせパターンが認識されているのではないことを示しています.この実験はまた,一般にfreezingは恐怖反応の典型でありストレス状態の極致であると考えられていましたが,光照射したOlfr1019のKIマウスではストレスホルモンであるACTHの血中濃度が上昇しないのです.したがってすくみ反応は,緊急時に体の動きをいったん停止させ,行動をリセットするための積極的な判断(immobility)であることが判明しました.このプロジェクトは森先生の研究室に齊藤さんを二年余り預かっていただいて行われたもので,特に電気生理学的な二次神経の活性化実験ではたいへんお世話になりました.単一糸球体の光刺激によって特定の行動が誘導できることを示したのは世界初の快挙でしたが,森先生は匂い地図の解釈の観点から,この実験をどのようにご覧になっておられましたか.
森 経験に基づく学習・記憶の場だと考えられる大脳皮質のなかで,匂い信号を特定の行動反応に変換する先天的神経経路が見出されただけでなく,単一糸球体の光刺激によりfreezingが誘導できたことは,嗅覚の研究者だけでなく大脳機能の解明をめざして神経経路を研究する人々に,私を含め,大きな勇気とさらなる研究へのモティベーションを与えたと思います.誰もがまず考えることは,解剖学的に記述されているどの神経経路が先天的な本能経路(innate circuits)であり,どの神経経路が経験学習に依存して常に変化する学習経路(learned circuits)であるかを決定することです.本能回路についてはすでに坂野先生からお話のあった通り,僧帽細胞軸索の扁桃体への直接投射が担当することがわかり,この問題解決のための方向性がつきました.その後の展開については後でまた詳しくお話ししたいと思います.
本能回路の可塑的な変化
坂野 さて先天的な神経回路が不変なものではなく,環境からの入力によって修正を受ける現象として,臨界期の「刷り込み」が広く知られています.本能回路を発達期の経験によって修正する研究では,私のグループにいた井上展子さんの活躍がありました.井上さんは大学院に入った当初から,嗅覚受容体が匂いリガンド依存的に発生させる神経活動に興味をもち,Sema7Aという分子に着目しました.この嗅細胞で匂い刺激依存的に発現するSema7Aは,二次神経の樹状突起に局在するPlxnC1とともに,新生仔期の糸球体でシナプス形成に関与する重要な分子であることが判明しました(図3).ちなみに,Sema7AやPlxnC1をKOすると糸球体内でのシナプス形成や二次神経の主樹状突起の選別が遅延します.またCNGチャネルのKOマウスに,外から導入したSema7A遺伝子を強制発現するとシナプス形成が回復することから,嗅覚受容体によって引き起こされる神経活動に依存して発現する主要因子は,Sema7Aであることが示されました11).
このプロジェクトをさらに発展させたのが,Sema7Aシグナルの刷り込み現象への関与です.高等動物では,新生仔の臨界期に受けた感覚入力は刷り込み記憶として生涯記憶され,その後の本能行動に影響を与えるのです.よく知られた例としては,カモのヒナが孵化して最初に見た動く物体を親として生涯後追いするKonrad Lorenz博士の発見12)があり,サケやマスの母川回帰や,発酵食品に対する嗜好にも刷り込み記憶が関与すると考えられています.この刷り込み現象は発見後すでに90年近くが経ち教科書に載るほど有名ですが,その分子メカニズムや回路レベルでの理解は殆んど進んで居りません.井上さんはマウスの場合,生後一週間の間に嗅いだ匂いは,例えそれが本能的に忌避すべき匂いであっても,母マウスに育てられていた幸せな記憶を思い起こす手掛り(cue)として働くことを見出しました.具体的には新生仔期に発現していた幸せホルモン,オキシトシン,によって演出される幸せだった情景を匂い記憶がよびさますのではと考えています.事実,オキシトシンやSema7AシグナルのKOでは,刷り込まれる匂いに対する正の価値付けまたは検出感度の上昇がそれぞれみられなくなります.興味深いことに,これらのKOマウスは,成長後の社会行動に異常をきたし,他個体を避ける自閉症様の行動を示します.したがって,発育期の感覚入力の異常が発達障害の原因となり,ヒトでも新生児期の刷り込みがその後の社会行動に重要な役割を果たしていることが示唆されました13).森先生はこの外界刺激依存的に生じる回路形成と本能回路の可塑的な変化をどうご覧になっておられますか.
森 発育期の刷り込みとよく似た現象に離乳期の食行動の学習があります.ヒトや動物は,生後間もなくは本能回路を使って母乳により育ちますが,離乳期になると親から与えられる母乳以外の食べものを学習して食べるようになります.そして,離乳期に経験した食べものの匂いや味の記憶とその好みは,一生続くと言われています.私の研究室では,山口正洋先生,室伏航先生,村田航志さんが離乳期の食べ物学習がどのように発達時期依存的に起こるのかを,嗅球ニューロンの投射先である嗅結節に焦点をあて研究を進めました14).社会行動でも食行動でも,本能回路の可塑的な変化や学習回路の追加が発育期の嗅覚神経系で起こると予想しています.
匂いの先天的な質感
坂野 さてここで,匂いに対する先天的な本能出力と関連して,匂いの先天的な質感について考えてみたいと思います.例えば私達は,バラの香りはこんな匂い,腐敗臭はこんな感じという具合に,匂いを嗅ぐとその香りのイメージをもつことができます.これは本能的な出力判断に寄与するのみならず,学習判断においても匂いの記憶情景の一部として関与することは明らかです.この匂いの先天的な質感がどう形成されるのか,一つの考え方は森先生との最近の総説のなかで議論したパレットモデル(図4)3)です.すなわち,あくまで仮説ですが,糸球体マップが絵の具のパレットのごとくいくつかの基本的な匂いの領野を含んでおり,各領野の刺激の度合いや組合わせがちょうど絵の具を調合するように混ぜ合わされて匂いの質感を形成する,と考えるのです.匂いは一般に複数の要素をもちますから,それぞれの基礎的要素を担当する糸球体があるのかもしれません.ヒトの場合,男性ホルモンの分解物を含む汗の匂いやコリアンダーの匂いを,好ましく感じる人とそうでない人がいます.これら異なるグループのヒトの匂い地図を比べてみると,複数発火する糸球体のうちの一つが,嫌いと感じる人では欠損もしくは変異していることを,デューク大学の松波宏明先生のグループが報告しています15).したがってパレットモデルに従えば,基本的な匂いの要素を与える糸球体,言わばインクカートリッジの一つがなくなっているため,合成される匂いの質感,すなわち色あいが違ってくると考えるわけです.森先生はこれについてどのようにお考えですか.
森 嗅球の匂い地図のパレットモデル(図4)に示しますように,「匂い要素を表現する糸球体に属する房飾細胞を出発点として,嗅皮質の浅層細胞のつながりでつくられる求心性経路を介して,上位の嗅皮質の錐体細胞に匂い要素の組合わせ(混合)情報を伝える」ことが,対象物の匂いの質感を形成するための基本となる,と私も考えています.そして,匂い要素の組合わせ情報の記憶には嗅皮質の錐体細胞間の軸索側枝によるシナプス連絡が大きな役割をもつと予想しています.また,嗅覚や味覚の先天的な質感がその後の学習回路で生じる匂いや味の記憶シーン想起に伴う質感にどのように影響するのかという問題に私も興味をもっています.ただ,今のところ「嗅覚や味覚の先天的な質感」とはどのようなものだろうかと推測しはじめたばかりです.
胚の発生がある程度進むと,胎仔は羊水を嚥下し消化管で吸収し腎臓から尿として羊水へ排出する作業をくり返し,誕生により開始する母乳の嚥下・消化・吸収・排泄の予行演習をします.これらの過程で,羊水中の味覚情報を口腔内の味細胞で受容して嚥下運動や消化管活動へとつなぐ先天的味覚神経経路が,誕生前に働くと推測されます.この先天的味覚神経経路は,甘味などの好ましい味質感を担当する経路と苦味や酸味などの忌避的な味質感を担当する経路にわかれているのではないでしょうか.
同様に,胚発生が進むと,胎仔は横隔膜を上下させる呼吸様運動をすることにより,羊水を鼻腔や口腔を介して肺へとり込んだり吐き出したりする作業をくり返し,誕生によりはじまる空気の呼吸運動の練習をしています.この作業中に,羊水中の匂い情報を鼻腔の嗅細胞で受容し,嚥下運動や消化管活動や呼吸調節へとつなぐ大脳の先天的嗅覚神経経路が,誕生前に働いているだろうと推測しています.この大脳の先天的な嗅覚神経経路も,好ましい匂いの質感を担当する経路と忌避的な質感を担当する経路にわかれているのではないでしょうか.今後の研究によって,脳幹や大脳の先天的味覚経路や大脳の先天的な嗅覚経路の実体が詳細に明らかにされれば,味や匂いの先天的質感や味と匂いを統合した風味の先天的質感についての理解が進むと期待しています.
──第3回「記憶に基づく学習判断と3つの比較軸」へ続きます
文献
1) Mori K & Sakano H:Front Neural Circuits, 16:861800, doi:10.3389/fncir.2022.861800(2022)
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4) Nagayama S, et al:J Neurophysiol, 91:2532-2540, doi:10.1152/jn.01266.2003(2004)
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15) Keller A, et al:Nature, 449:468-472, doi:10.1038/nature06162(2007)
森 憲作(Kensaku Mori):1974年,大阪大学大学院基礎工学研究科修士課程修了(’78年工学博士).群馬大学医学部助手・講師,イエール大学医学部Research Associate,を経て’87年,大阪バイオサイエンス研究所副部長.’95年,理化学研究所ニューロン機能研究グループグループディレクター.2000年から東京大学大学院医学系研究科機能生物学専攻教授.’15年,東京大学名誉教授.’15年より理化学研究所脳神経科学センター客員主管研究員(現在に至る).
坂野 仁(Hitoshi Sakano):1976年,京都大学大学院理学研究科生物物理学専攻博士課程修了(理学博士),カリフォルニア大学サンディエゴ校化学部博士研究員.’78年,スイスバーゼル免疫学研究所研究員,’81年,カリフォルニア大学バークレー校微生物・免疫学部Assistant Professor,Associate Professorを経て’92年,同分子細胞生物学部免疫学部門Full Professor(’96年まで).’94年から東京大学大学院理学系研究科生物化学専攻教授,2012年,東京大学名誉教授.’13年より福井大学医学部高次脳機能部門特命教授(現在に至る).