本コーナーでは,実験医学連載「Opinion」からの掲載文をご紹介します.研究者をとりまく環境や社会的な責任が変容しつつある現在,若手研究者が直面するキャリア形成の問題や情報発信のあり方について,現在の研究現場に関わる人々からの生の声をお届けします.(編集部)
2007年の世界金融危機の後,大学生の就職状況はきわめて厳しくなった.就職先が決まらない学生がただモラトリアムを求めて大学院に進学したり,故意に単位を落として自主留年を選択し新卒資格を保ったり,などという話まで聞こえてくる.まるで1992年のバブル崩壊後,われわれ就職氷河期世代が見てきた状況を再現しているかのようだ.しかし当時のバブル崩壊から大学生の就職率が回復するまで実に15年を要したことは,無目的に数年程度の逃避行動をとっても状況は改善しないという教訓をくれた.前回の就職氷河期の煽りを食って進学計画の変更を余儀なくされた私の体験談が,現在卒業間近の学生諸氏の進学先選びにわずかでも参考(反面教師?)になればと思い筆をとった次第である.
時は1992年.とある地方大学.入学時に大学から配られた先輩たちの就職先リストには華々しい有名企業の名も多数あった.しかし,翌年以降の卒業生の就職先はがらりと様変わりし,われわれは驚愕した.200社以上応募したとか,公務員試験の倍率が急上昇したとかいう話を聞きつつ,当時からアカデミアの世界を夢見ていた自分は,就職難も進学組には無関係の話だと高を括っていた.ところが当時,大学院の拡充政策期だったこともあり,就職先未定の学生たちが続々と大学院進学を言及しはじめた.4年生の研究室配属の際,大学院進学希望者は第一希望を配慮するという話だったのが,進学希望者が増えたことで希望者過多の研究室は抽選方式に変更された.私はみごとにハズレを引き,思い描いた生物学研究者へのプランがいきなり崩れ,途方に暮れた.次善の策を懸命に考え,化学系の研究室を選択した.その研究室はカナダに共同研究先があり,定期的に院生を留学させていた.今,思えば的外れな動機だったが,入ってみると化学も楽しく,また留学できたことで英語や外国の研究室生活に馴染むことができ,大きな経験を積めた.その後,博士課程進学に際して再び生物学を志した.当時お世話になった先生方からも他大学への進学と分野変更を後押ししていただけ,非常に嬉しかった.いくつもの大学院説明会や研究室見学会などに積極的に参加して情報を収集し,某国立研究所の研究室に第一志望を絞った.事前に志望研究室を訪問し,生物学への熱意を訴え,受験に関する助言や研究環境などさまざまな情報をいただいた.受験時のプレゼン資料も入念に準備した結果,無事,希望研究室に入ることができた.
こうして博士課程から生物学を始め,その後も紆余曲折を経て現在に至るが,英語はもちろん,化学分野で学んだ有機化学,分析化学,大量データの相関解析などの知識とスキルは,さまざまな分子生物学研究,そしてオミクス解析などで思った以上に役立っている.最初,回り道かと思っていたことが,気がつけば自分の重要な強みになっていた.また,異なる分野の研究視点と研究環境を経験したことで,結果的に自分独自のキャリアが積み上がり,自分でも気付かぬうちに幅広い人脈が形成されていた.
今思い返すと重要だったことは,最終目標を見定めておけば進路変更を余儀なくされても関連するスキルアップが可能な環境は探せること,そして理解ある良き先生方に出会えること,だと思う.一時的な不運に意気消沈することなく,与えられた条件を最大限に活かして研究に打ちこめば,自ずと道は開けるものなのだろう.これまでお世話になった諸先生方には心より感謝申し上げたい.そして,現在の就職氷河期を生きる学生諸氏の幸運を願ってやまない.
兼崎 友(東京農業大学生物資源ゲノム解析センター)
※実験医学2013年2月号より転載