本コーナーでは,実験医学連載「Opinion」からの掲載文をご紹介します.研究者をとりまく環境や社会的な責任が変容しつつある現在,若手研究者が直面するキャリア形成の問題や情報発信のあり方について,現在の研究現場に関わる人々からの生の声をお届けします.(編集部)
葉っぱにそっくりな蝶や蛾を見たことがありますか? 私は,ヤガ科のOraesia属の蛾(アカエグリバ)やタテハチョウ科のKallima属の蝶(コノハチョウ)といった枯葉に擬態した模様の発生と進化の研究に取組んでいます.アカエグリバの枯葉模様がどのような揺らぎ構造をもっているかを調べたり1),またコノハチョウの枯葉模様が,葉っぱに似てもにつかない普通の蝶の模様からどのように進化してきたのかを解き明かしたりしました2).
実験医学の読者の方々は,普段モデル生物を使って分子生物学的な研究をされている方が多いと思います.ですので,こういう非モデル生物のように,おもしろいけど取扱いが難しそうな材料を使ってどうやって研究に取組んでいるのか不思議に思われる方も多いのではないでしょうか.そこで,本コラムでは,これまでの研究に触れつつ,折々で考えてきたことなどをご紹介したいと思います.
蝶や蛾の研究をはじめたきっかけは,最初のポスドク先である神戸の理化学研究所でした.倉谷滋先生の研究室では脊椎動物の発生と進化(エボデボ)がご専門にもかかわらず,蛾の研究に取組むチャンスをいただきました.とても幸運でした.私は昆虫少年でもなくずぶの素人でしたので,六甲山で蛾を採集してなんとか実験室内での飼育に成功したのも,そのとき一緒に取組んでいたフィールドワークに長けた仲間のおかげでした.これもとても幸運でした.
生命現象の揺らぎに興味をもっていたので,アカエグリバの枯葉模様がどのように揺らいでいるかを調べました.揺らぎは数十個体の翅の写真を高解像度で撮影して定量化しました.揺らぎがもつ構造を調べたいと思って,形態測定法とグラフ理論と統計物理のスピングラスを組合わせて解析する手法を開発して,揺らぎのもつモジュール構造の抽出に成功しました1).博士課程時代に複雑系という研究分野で,大腸菌を使いながら数学や物理にも取組んでいたことが功を奏しました.
蛾や蝶は17万種にものぼります.この多様な模様も研究対象にしたい.ただ,1種1種飼育から立ち上げているようでは難しい.そこで,頭に思い浮かべたのは標本の利用でした.蝶や蛾の標本は世界各地に保存されています.これを利用しない手はないと考えました.標本を利用してコノハチョウの枯葉模様の進化を解明しました2).この研究では比較形態学という学問体系とベイズ統計モデリングを組合わせて取り組みました.比較形態学は倉谷先生のご専門で,神戸時代に薫陶を受けたことがこの研究につながりました.
振り返ってみますと身を助けてくれたのは,高度な数理技術をもっていたこと,必要に応じて新規に知識や技術を習得できたこと,複数の異なる分野を横断して取り組めたこと,師や仲間に恵まれたこと,などでしょうか.
現在は,模様の分子発生学的な背景にも興味があります.次世代シークエンス技術が進展し非モデルの生物でも遺伝子発現を網羅的に調べられる時代になりました.蝶や蛾の研究に取組みはじめて今年で10年目になります.長く取り組んでいるおかげで,以前できなかったことが調べられるようになりました.最近はすっかりカイコ蛾や標本を使った研究ばかりになっていますが,再び野外に出て蛾や蝶を採集しつつ模様を遺伝子レベルで調べる研究に取り組みはじめています.
硬派に基礎を学び,異なる分野を横断し,成功も失敗も経験を積み重ね,“チート級”へと技術を磨き,なお守りに徹することなく未知の領域に飛び込んでいく姿勢を持ち続けることが,ワクワクする謎に挑むために大切だと思います.
鈴木誉保(農業生物資源研究所)
※実験医学2015年9月号より転載