本コーナーでは,実験医学連載「Opinion」からの掲載文をご紹介します.研究者をとりまく環境や社会的な責任が変容しつつある現在,若手研究者が直面するキャリア形成の問題や情報発信のあり方について,現在の研究現場に関わる人々からの生の声をお届けします.(編集部)
私たち夫婦は5年前に米国にわたり,バイオ研究にかかわる分野で日々仕事に打ち込んできた.そんななか,著者の石井(夫)の共同研究者で,外国人ポスドク仲間でもある友人が不慮の事故に遭った.幸い意識は戻ったものの,治療は長期にわたり,知覚や運動機能には制約が残るという.緻密な実験作業を伴うプロジェクトに取り組んできた友人にとって,この状況は絶望的なものに思われた.しかし,雇用主であるPIはこんなことを言ったのだった.
「手の代わりになる人を雇おう.研究計画とデータの考察は本人に続けてもらえばいい」
日本で研究教育を受けてきた私たち夫婦にとって,米国の分業文化には戸惑いを覚える面も多い.実験動物の餌つくり,器具の洗浄など,これまで研究の一部だと思っていた作業を,他人の手や機械に委ねる.その行為をどこか無責任にも感じていたが,「頭」と「体」の仕事を別のスタッフに振り分けるという今回の発想にはハッとさせられた.そしてこのことは,私たちが抱きがちな「研究者はこうあらねば」という固定観念についても思いを馳せるきっかけとなった.
学生として研究室に入ったその日から,バイオ研究者は多種多様な技能の習得を求められる.研究は複合的な要素によって成り立っており,幅広い能力を養うことにももちろん意義がある.しかし,それを「すべてができなければ研究者としてやっていけない」と読み替えてしまうと,「できないこと」の陰に隠れた各人の強みを見逃すだけでなく,自分自身を苦しめることにもつながりかねない.
友人は事故後,遠方で治療を続けているが,ここ数カ月はリモートワーク環境の整備のおかげもあり,体調を考慮しながら数時間ずつデータ分析や議論に参加している.突然の怪我や病気だけでなく,身体や対人コミュニケーションの特性,育児・介護といったライフイベントなどを理由に,今まさにバイオ研究の道を離れようとしている学生・研究者もいるかもしれない.だが,彼らのなかにも,分業,時短勤務,遠隔勤務など,新たな枠組みの導入により,研究に取り組み続けられる人々がいるのではないだろうか.
個人ではできないことを実現できるのが,チームワークや社会生活のもつ力である.他分野との共同研究や,コアファシリティーの導入など,分担・分業はこれまでもバイオ研究の発展に寄与してきた.私たち研究者は,すべてを自分で抱え込もうとするのではなく,他者やテクノロジーの力を借りることにもっと前向きになってもいいのかもしれない.それに加え,長時間勤務が当然とされがちな研究現場においても,柔軟な働き方の枠組みを検討すべきときがきているのではないか.「できなくなる」ことへの恐れではなく,違いや変化を越えて長く研究に取り組める安心感こそが,学生にとっても現役の研究者にとっても真のモチベーションとなるはずだ.
近年,生物学・医学分野での研究離れが問題になっているが,互いの強みを活かし合う環境を醸成することで,多彩な人々が研究に参加できる可能性は高められるかもしれない.人材や働き方の裾野が広がることで研究界全体の厚みが増し,発想や成果にも広がりが生まれるのではないだろうか.
事故や病気など,ある日突然ラボに来られなくなる事態は誰にでも起こりうる.友人とその家族を支援した経験から,緊急時の備えに役立ちうる点をいくつかあげる.
石井健一(ソーク研究所),坪子理美(英日翻訳者・ライター)
※実験医学2020年8月号より転載