(実験医学2012年4月号掲載 連載 第1回より)
有名な遺伝学者,Theodosius Dobzhanskyのこの言葉は,近年の進化学,ゲノム医学の進歩によって益々重みを増してきている.それはおよそ38億年前にはじまった生命進化の歴史が,ゲノム研究によってより深く理解できるようになったからである.去る2009年は,Charles Darwinの生誕200年,『種の起源』の刊行150年の年にあたり,さまざまな出版物や催しによって,進化論は脚光を浴びた年となった.そして進化論は,ゲノム研究の裏づけによって,進化学とよぶべき分野に発展したということができる.
ヒトもまた生物の一種であり,およそ38億年前に地球に出現した生命体の後裔であることは疑いがない.そして医学はこの人体の構造と機能を明らかにするとともに,病気の成因を解明して,診断,治療法を確立することを目的としている.したがってそれは明らかに生物学の一分野であり,Dobzhanskyのいうように進化の視点がなければ意味がないことになる.
しかし従来医学の領域では,進化学の視点はきわめて乏しかった.「進化医学」あるいは,「Darwin医学」のコンセプトが登場するのは1990年代になってからで,1994年にRandolph M. NesseとGeorge C. Williamsの『Why We Get Sick』という書物と,あまり広くは知られていないが同じ年にMark Lappéの『Evolutionary Medicine』が出版されてからである.これらの書物に触発されて,筆者は2000年に『人はなぜ病気になるのか 進化医学の視点』を出版した.これらの書物は病因論に進化学の視点を導入し,より遠因に遡って深い理解をしようとするものであった.しかしその内容は断片的,挿話的であり,体系化されたものではなかった.そして進化医学にかかわる書物で取り上げた病因論は1つの仮説,あるいは解釈としてとらえられ,科学的な根拠が不十分であると理解されることが多かった.また多くは直接診断や治療に結びつかないこともあって医師の関心を引くことが少なく,進化医学はなお医学のなかで市民権を得ていない状態である.
進化医学の試みがはじまって20年近く経過したが,この間の生物科学の進歩は誠にめざましいものがある.ウイルス,細菌にはじまったゲノムの解読は,やがてヒトゲノム・プロジェクトに進み,2003年には標準的なヒトゲノム配列が決定された.その後さまざまな生物でゲノムの解読が進み,それらが生命進化の研究を,著しく深化させた.またヒトにおいてゲノムの個人差の研究が進み,ゲノムの個人差とヒトの表現型や病気との関係も次第に明らかになりつつある.医学が人間共通の医学から個の医学へ,そしてまた人種(人間の1つの集団という意味)の特徴に基づいた医学へと進みつつある.それとともに進化学の視点から,もう一度医学を見直そうという動きも出はじめているように思われる.Dobzhanskyの言葉をいい換えれば,「ゲノム進化の理解なしには,生物学も医学も意味をなさない」ということができるであろう.