本コーナーでは,実験医学連載「Opinion」からの掲載文をご紹介します.研究者をとりまく環境や社会的な責任が変容しつつある現在,若手研究者が直面するキャリア形成の問題や情報発信のあり方について,現在の研究現場に関わる人々からの生の声をお届けします.(編集部)
研究所という研究環境は,研究者や技術員,事務職などさまざまな人によって構築される,一つの“生態系”である.そして,その構成要素のどれもが,良い研究環境のために欠かせないものだ.私はというと,修士課程で研究活動に従事した後,現在は国立の研究所の事務職として勤務し,この“生態系”の一端を担っている.本稿では,研究所の事務職の仕事について紹介するとともに,事務職の視点から見た研究現場や,研究と事務の両方の経験をもつ人間のキャリアパスについて語っていこうと思う.
「研究所の事務職」と一口にいっても,その業務は多種多様である.組織内の予算管理や,労働環境,研究施設や情報システムの管理,物品購入や業務委託の契約,研究成果の発信や知的財産の管理,他組織との間の交渉などさまざまだ.このなかでも現在私は,主に研究施設の管理や物品購入の契約に携わっている.これらの業務にあたるなかで研究経験や専門知識が活きる場面は,相当ある.例えば物品購入時や施設の修繕を行う際,研究者が求めることを汲み取ると同時に,業者にその意図が伝わる仕様を決定し発注する必要があるが,専門知識や研究現場特有の事情の理解はこれらのコミュニケーションを円滑にする.他にも,予算執行や研究実施の不正を防ぐガバナンス管理のための業務において,研究現場の様子や研究倫理の観点を踏まえた判断が可能となる.これらの例は成果物として表れたり定量的に評価されたりするものではないが,どれもが良い研究環境をつくるうえで重要だと感じている.
事務職の視点から見た研究現場の姿は,修士課程の頃に見えていたものとはまた違って見える.修士課程の頃は,研究室で行う実験や議論といった,研究現場における研究活動自体の側面を見ていた.一転,事務職の今は,全体的・社会的な視点から研究現場を見ている.研究所という組織全体を維持・管理するためにどのような業務が必要なのかという視点や,社会において研究所という組織が理解を得られる体制になっているのかどうか,というような視点である.
これらの事務職の視点は業務を通して内面化されていき,そしてそれはさまざまな気付きを自分に与えた.特に,さまざまな業務に携わるなかで知った,研究所を運営するうえで適用される法令や制度の多さ,意思決定におけるステークホルダーの多様さは,研究所という“生態系”の複雑さを感じさせた.同時に,研究者と事務,それぞれの考え方の基準や価値観の共通点・相違点について考えさせられた.研究現場を双方の視点から捉えることで生まれる葛藤はもちろんある.しかし,この葛藤から生まれる問いは,研究をより深く考えるための価値ある問いとして受け入れ,向き合い続けている.
このように,研究所の事務職において,研究経験が活きることは疑いようがない.一方で,日本における研究と事務職,双方の経験をもつ人材のキャリアパスは開拓の途上である.キャリアパスは個人の資質や能力にも依存するが,それ以上に,資質や能力が評価される場や環境があるかどうかに左右される.そのような場や環境が生まれるには,やはり研究と事務職の双方の経験をもつ人材が研究の“生態系”や社会のなかで活躍し,その価値を伝えることが重要だろう.私自身,今後のキャリアパスは未知だが,研究の“生態系”に関わろうとする以上,事務職の経験が無駄になることはないと確信している.研究所の事務職をキャリアパスに組み込むことはチャレンジングかもしれないが,一考に値すると,私は思う.
下平剛司(国立研究開発法人 水産研究・教育機構)
※実験医学2022年5月号より転載