本コーナーでは,さまざまなフィールドでご活躍中の先生に,医師として歩んでこられた道のりや,現在,そして将来のこと,などについて語っていただきます.2012年4月号では藤田保健衛生大学 総合救急内科の山中克郎先生にご登場いただき,名古屋第一赤十字病院 神経内科 後期研修医の安藤孝志先生にインタビュアーを務めていただきました.
山中克郎
安藤先生(以下、敬称略):山中先生は今までどのようにキャリアプランを設計されてきたのでしょうか.
山中先生(以下、敬称略):私には全然キャリアプランがなかったんですよ.医学部4年生のときから実験をやっていました.当時,モノクローナル抗体作りがはやっていて,それを作る研究室がありました.そこにアメリカから帰ってきたばかりの珠玖 洋(しく ひろし)先生(現 三重大学大学院医学系研究科 教授)という,すごくかっこいい先生がいたんです.その先生に憧れて,研修2年間を修了したら絶対に研究をやろうと思っていました.2年間しか臨床をできないかもしれないと思ったので,名古屋掖済会病院では研修医として必死に働きました.その後,念願の大学に戻り大学院へ行きました.在学中に4年間海外留学したのですが,やはり実験はうまくいくときもあるし,うまくいかないこともあるんですよね.研究で生活していくのは難しい,自分にはそんな才能はないなと思い日本に帰ってきて臨床をすることにしました.
研究は当たればホームラン,ノーベル賞を取れるような研究ができるかもしれないし,すごくメジャーなジャーナルに論文が載る可能性もあります.でも空振りの日も多い.臨床というのは患者さんのところに行って話を聞いたり,薬を使って熱を下げてあげるだけで,すごく喜ばれます.ホームランは打てないけど,バントでランナーを進めることくらいは毎日できるかもと思いました.
安藤孝志
安藤:はじめは研究者になろうとしたけれど,臨床のよさに気づいたのですね.
山中:そのときは血液内科医だったのですが,そのころからいろいろな病気を診ることは好きでした.大学を出て,最初に赴任した病院は小さな病院でした.内科メジャーといわれる消化器科,呼吸器科,循環器科はあったのですが,それ以外の科はありませんでした.私はそこに行って,腎臓内科と糖尿病を専門とする部長の下で血液内科を1人でやっていましたが,血液の患者さんはそんなに来ないんですよね.結局,循環器,呼吸器,消化器科が診ない患者さんはみんな私が診ることになったんです.でも,それがすごく楽しかった.そんなことを3年間続けていたら,国立名古屋病院(現 名古屋医療センター)からHIVの医者がいないから来ないかと誘われました.内海 眞先生(現 東名古屋病院 院長)という私のすごく尊敬する先生がいらっしゃって,内海先生の下で血液内科とHIV診療を勉強することになりました.
あるとき,内海先生から電話で呼ばれて「今度,臨床教育制度が変わるんだよ.これからは総合診療医を養成しないといけないんだ.誰かをアメリカに行かせて総合診療の勉強をさせないといけないことになった」と言われました.内海先生は内科各科の部長に誰か1人を留学させてくれませんかと頼みに行ったそうですが,どこの科もとても忙しいですから,断られたようです.そこで,直属の部下であった私に電話されたのです.その話を聞いておもしろそうだなと思いました.返事の期限を聞いたら,「明日の10時までに厚生労働省に返事をしないと駄目なんだ」という話でした.
急いで家に帰り妻に話したら,「やりたいと思うんだったらやってみたら」と言ってくれました.総合診療の扉はこのときに開かれました.
安藤:もともと血液内科で一般内科もやられて,ある意味,そこも総合診療だったのかもしれないですが,そこから現在に通じる道に入っていくわけですね.
山中:私がなりたくてキャリアを選んでいったというよりも,そういうニーズがあって,誰もやらないのだったらやりましょう,という感じでここまで来ました.
このほかに2012年4月号本誌では,【救急へ進んだきっかけ】【ロールモデルの存在】【教育への想い】【これからの展望】【初期研修医へのメッセージ】などを収録!山中先生の人物像・医師像に迫っていきます!つづきは本誌で!また,本誌に収まりきらなかった内容をホームページ限定で順次紹介していきます.ご期待ください!
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