人工呼吸管理・NPPVの基本、ばっちり教えます:特集にあたって

ハワイで長年にわたって家庭医療に取り組んできた医師が,自ら歩んだ道のりを振り返り,医学を目指した頃の思いを綴ります.

前編なぜ,医学の道へ?

ハワイ・ホノルル市内のクワキニ病院キャンパス内でクリニックを営みながらハワイ大学医学部の医学生,研修医の指導をして44年になります.

「なぜ,医師になろうと思ったのか?」私は,たびたび尋ねられます.しかし,この問いに答えることをこれまで長い間避けてきました.

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今から30年程昔,私がハワイ大学医学部1年生のあるクラスを担当していた頃のことです.ある日,グループセッションの最終日に,皆でお昼を食べながら,医学倫理に関するディスカッションをしました.最後に「なぜ,自分は医師になりたいのか」というテーマについて,建前(面接用)ではなく,本音で語ることになりました.そして,全員が語り終えて閉会にしようとした矢先,1人の学生が手を挙げて「先生はなぜ医学を志したのですか?」と質問したのです.従来どおり,そのまま聞き流せばよいものを私は気軽に話しはじめました.しかし,即興で話しはじめてしまったことはたいへん迂闊でした.暫く話しているうちに,私の心の奥深くに仕舞い込んでいた辛い思い出が蘇って,涙で目がかすみ,声が喉につかえて,話ができない状態に陥ってしまったのです.ようやく冷静さをとり戻し,学生たちには「この話を続けることはできません」と伝え,気まずさのなかでクラスを終了しました.

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今,医師として従事して47年,そのキャリア終盤を迎え,いつ引退してもよい時期をとっくに過ぎてしまった当節の私です.日々,昔日を思うなかで,あの学生たちに答えそびれてしまった「なぜ,医学の道を志したのか?」という問いに対して,再びチャレンジしてみようと思います.

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時をはるかに遡って1957年,私が小学校4年生のある夏の日の週末のことでした.父が私と8歳の弟を,大相撲に連れて行ってくれたときのことです.普段は忙しい父が,われわれを遊びに連れていくのははじめてでした.そのときに見た大相撲は,本場所の合間に行われる地方巡業だったのでしょう.確か,最後の取組は,横綱朝潮と横綱若乃花だったと思います.相撲巡業は,当時の沖縄民政府(現在の沖縄県庁)所在地である那覇市泊(とまり)で行われました.泊は,私たちの家がある宜野湾村(現在の宜野湾市)からは遠かったので,父が中古で買った三輪トラックで行くことになりました.私と弟は荷台に乗せられ,コトコト揺られながら泊までの長い道のりを進んでいきました.「みずしま」※1と父が呼んでいたその三輪トラックは,オートバイのようなハンドルがあり,運転席に屋根はあるがドアはなく,運転席の隣には貧弱な助手席がついていて,小さな荷台には屋根はありませんでした.さて,大相撲観戦を終え,おもしろかった1日が終わり,家に帰る時間となりました.そのとき,私と弟に「ジャンケンをして,勝った方が助手席に座りなさい」と,父は言ったのです.それが公平だろうと判断したのでしょう.結局,私が勝ってしまったため,私が助手席に座ることになりました.しかし,私は全く嬉しくないどころか,独りぼっちで荷台の片隅で膝を抱いて寂しそうに座っている弟の姿を見て,途中から罪悪感に苛まれました.

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帰宅すると,弟はすぐ床に横たわり,間もなくして熱発したのです.熱のため,弟は翌日から学校を休むこととなりました.そして数日後,学校から帰ると弟がいないことに私はすぐ気がつきました.祖母に事情を訊くと,高熱と痙攣のため中央病院※2(現在の沖縄県立中部病院)に連れて行かれたとのことでした.その後,私は病院で弟と面会することもないまま,1957年6月6日夜半自宅で彼に再会することとなりました.太平洋戦争※3の激戦ですべてが破壊されたあとに緊急に建てられた茅葺の狭い家の中で,人の泣き声がするので,すぐ傍で寝ていた私は目が覚めました.いったい何が起こったのかと,女性たちの肩越しに覗くと,弟が真青の顔でまるで眠っているかのように床に横たわっているのが見えたのです.耳孔と鼻孔に白い脱脂綿が詰まっているのが印象的で,私に異変を感じさせました.しかし,「寝なさい」と言われ,私は言われるがまま床についたもののなかなか寝つくことができないまま朝を迎えました.

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翌日,庭で村の大工さん2人が即席の棺をこしらえて,親戚と近所の人たちで弟の葬式がとり行われました.弟の学級担任の先生がハンカチで涙を拭いている悲しそうな顔も,私は覚えています.女性たちの泣き声を聞きながら,サトウキビ畑と芋畑に囲まれた畝を歩き,お墓へ向かいました.子どもの私には,葬送行列の道程は,とても長く感じたものです.ようやく墓地に到着すると,無事に戦火を逃れた,われわれの先祖代々が祀られている亀甲型の古い大きな渡慶次家の墓※4がありました.暗く冷たい墓に,いざ,弟の棺を入れる瞬間,人々の泣き声はピークに達しました.墓に入り,長方形の石戸で入口を閉じられた弟は,16代続くご先祖様と一緒になりましたが,それは悲しみに暮れた当時30代の私の両親には何の慰めにもならないことだったでしょう.幼いわが子を死なせてしまった苦痛に満ちたこのときの両親の顔を,私は決して忘れることができません.そして,私にとって最高の遊び相手,最愛の弟が死んでしまい,私も毎日を苦しい思いで過ごしました.弟のことで胸が一杯となり,彼の幽霊でもいいから,また会いたいと常に願っていたものです.

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たいへん信心深かった私の母は毎日のようにお寺や神社等でお祈りをすることが日課となり,“もう一度,死んだ息子と話したい”という熱烈な望みと耐え難い悲しみが,ついに母をユタ※5の家へと導いたようです.土地の人々は,ユタに頼めば霊界に入った人間と会話ができると信じています.そして,母は,トランス状態となったユタに次のように言われたのです.「自分(弟)は,故意に兄とのジャンケンに負けた.それは兄を病気から守るためだ.だから兄を前の座席に乗せるようにした.自分は学業も上手くできないので,自分が兄の代わりに天国に行き,学業に優れた兄が,この世に生き続け頑張って勉強して,人様を助けるような人になってほしい」.私はユタの信憑性について疑うこともなく,また,われわれがジャンケンをしたことをなぜユタが知っているのか,という疑問すらも浮かびませんでした.ただ,それを聞いた瞬間,私は「なぜ,弟ではなく私がジャンケンに負け,病気になり,天国に行かなかったのか!」 と,激しく自分を責めました.このような結果になることがわかっていれば,弟の代わりに私は,喜んで天国に行ったのに! 私は,このときから,この考えにとりつかれてしまい,この気持ちを長く背負い続けることになります.このとき,私は将来医者になって,幼い弟を死に至らしめたB型日本脳炎※6と闘い,この病気を撲滅すると,秘かに自分の心に誓ったのでした.そして,私の両親のように幼い子どもを病気で亡くし,深い悲しみを経験する親がいない世の中になってほしいと切望しました.

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しかし,“医者になりたい”という気持ちは,誰にも話せませんでした.戦争によってすべてが破壊された,終戦直後の貧しい沖縄の一家庭に生まれた自分が,恐れ多くも医者になりたいなどと人に語ることは非常に憚られることだと思ったからです.また,当時の私が知っている人々のなかに医者が1人もいなかったというのも理由の1つだったのでしょう.ときどき,大人たちが「あそこの村の長男が,とても勉強ができて,ついに医者になったそうだぞ」とか,「医者は,本当に素晴らしい職業だなあ」などと話しているのを耳にすると,ますます,私は自分が医者になるなんて,やはり身分不相応で不可能なことなのだと思わざるをえませんでした.しかし,そう思うたびに,私の脳裏には1人でトラックの荷台に乗っていた寂し気な弟の顔,真青になって死の床についた弟の顔が浮かびあがり,私の心を奮い立たせました.私の脳裏に焼き付いた弟の表情は,どんなに困難にあっても諦めずに,目的に達するための原動力となりました.

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弟がいる場所に自分がいたかもしれない,と考えると,食事も睡眠も,いかにとるに足りない些細なものであるという悟りに達しました.とにかく医学の道に進むために,中学2年生のときから,睡眠時間を極端に減らし,必死に勉強をしはじめました.そのため,私は瞬く間に睡眠障害に悩まされました.ほぼ毎晩のように金縛り状態※7で幽霊の幻覚に悩まされ,身動きがとれなくなる睡眠麻痺状態が起こり,それは研修医時代まで何十年も続くこととなります.

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弟の死から10年後の1967年,私はある事情をきっかけに,夢にも思わなかったハワイ大学の学士課程微生物学部に入学することになりました※8.米国では,医学部入るために学士号取得が必要になります.私は死に物狂いで勉強し,同課程を卒業後,私はそのままハワイ大学の医学部に進むという夢みたいな幸運に恵まれ,幼い自分の心に誓った医師への道をついに歩みはじめました.ハワイ大学医学部の4年制第1期生として卒業後,ミシガン州でファミリープラクティス(家庭医療)の研修を経て,再びハワイに戻り1978年,開業と同時にハワイ大学医学部に招聘され,現在に至っています.

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弟が死んで数年後,当時3歳の妹が庭で転倒し,額に怪我をしてしまいました.私は妹をおんぶしてバスに乗り,普天間にあるクリニックに連れて行きました.クリニックでは,すぐさま医師が妹の裂傷を縫ってくださり,私たちは笑顔の看護婦に見送られて家路につきました.当時の私には,医師が行った医療行為と引き換えにお金を払うなどという概念は,一切ありませんでした.そしてまた,クリニックの医師も看護婦も,私に治療代を請求したりすることはありませんでした.仮にそうされても私のポケットにはバス賃しかなかったのです.その晩に帰宅した父が,妹の怪我と治療のことを私から子細に聴き,翌日,クリニックに支払いに出かけたようでした.当時の私は,医者というものはひたすら患者様に奉仕をするだけのものと思っており,その治療行為をお金と交換するというのは,私にとっては想像外のものでした.

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このイメージは,何と,私が研修を終え開業するまで自分の頭の中にありました.世間知らずで考えが甘いと言われたら,確かに否定できません.こんな調子なので,それぞれの専門医の報酬など知る由もなく,また,自分で調べてみようという発想すら私にはありませんでした.医学生のなかには,報酬金額も考慮したうえで,どの専門分野で働くかを考える人もいるようですが,私は医学生時代,すべての専門が大好きだったため,結局何でもできるファミリープラクティスを選択しました.そして,それが一番収入の少ない分野であることは開業してはじめて知りました.実は,いまだに私の治療を受けた患者様からお金をもらうこと自体に,やや後ろめたい気持ちがします.同僚の医師達が保険報酬の支払い金額についてあれこれ非難をしたり,不満を言ったりしていても,私はその仲間に入って議論に参加する気にはなれません.それは,私が小学4年生のとき,純粋な気持ちで決意した自分の誓いに反する行為になるからです.

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弟の死をきっかけに目標にした「医者」になりました.医者になったその日に,私の夢は,すでに叶いました.これ以上に,私が望むものはありません.ただ,医師として,常に初心を忘れず,ひたすら患者様に日夜御奉仕し,医学生たちに無償で教えることが幼い自分との約束を守ることだと信じて今日までやってきました.

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長年,棚上げにしていた「なぜ,医師の道を志したのか?」との問いに,ようやくお答えすることができました.私が医師として,なぜがむしゃらに働き,なぜこのような信念の持ち主になったのか,多少なりともご理解いただけたでしょうか?

渡慶次仁一(Jinichi Tokeshi)

ハワイ大学ジョン・A・バーンズ医学部 家庭医療学/老年医学 臨床教授

Clinical Professor Family Medicine/Geriatrics

John A Burns School of Medicine

University of Hawaii