本誌2015年4月号,東京城東病院 総合内科 志水太郎先生のインタビュー記事に収まりきらなかった内容を,ホームページ限定の番外編としてお届けいたします.
志水先生(以下敬称略):自分の常識が通用しないところに足を踏み込んでいくことは大事なことだと思います.太田先生は離島ですよね.私は5年目からの後期研修医のとき,MPH(公衆衛生修士号)留学で行ったエモリー大学の学費を稼がないといけなかったので,日本とアメリカを行き来して,200以上の病院を渡り歩きました.
初期研修医の方はアルバイトができませんが,後期研修医になるとアルバイトをはじめる方が多くなります.設備が充実した自分の病院でガンガンやっていたとしても,はじめてのアルバイトで非常に軽装備の病院のERに立ったときの緊張感でさえ,すごいんですよね.どんな患者さんが来るかわからないというのはもちろんですが,物品がどこにあるかもわからないし,どんなカルテでどんなオーダリングかもわからない.「血液培養のボトルないですか?」と聞いたら「それ,何ですか?」と言われることもあるし,技師さんがいないからX線を自分で撮るのも当たり前.本当にいろいろあります.でも,自分の病院の文化が全く通用しないところに行くと,とても鍛えられます.
太田先生:確かに環境が変わると成長しますね.
志水:だから1つの病院だけじゃなくて別の環境に出て行くことも大事だと思います.
編集部:レジデントノートの主な読者と年齢が近い太田先生のキャリアプランについても少しお聞きしたいと思います.太田先生は,今,卒後4年目で,離島に行かれています.離島に行くという進路は,どのように決めたのでしょうか.
太田先生(以下敬称略):私は,もともと何でもやってみたいという思考がありました.なぜかというと,学生時代からいろんなことをやって全部楽しかったし,いろんな病院を見学して,どこに行っても楽しかったんです.だから,まず,いろんなことが経験できる病院で働きたいと考えました.そして,母の出身地でもある沖縄を選んで,沖縄の病院をいろいろと見学させてもらい,沖縄県立中部病院の研修コースの1つである「島医者養成コース」に応募しました.
編集部:離島に行かれるときは,1人になるという恐怖や不安はなかったのでしょうか.
太田:確かに最初は怖かったです.どんな患者さんが来るかわからないという恐怖感と,全く知らない場所に行くので人間関係についてもすごく不安が強かったですね.実際,島民の方とぶつかることもしばしばありました.でも,1人の人間として患者さんと接する機会が今まで多くなかったので,とても鍛えられました.
初期研修医のときは,後ろに沖縄県立中部病院という看板があったので,患者さんはそれを見てこられます.だけど,離島では,直接,私自身を見てこられるんです.太田龍一という人間に対して患者さんがぶつかってこられます.後ろに先生が誰もいないので,「どうしたらいいですか」と聞けないですし,かといって,そこで逃げるわけにいかないので,すごいストレスでした.でも,この2年間で,ぶつかりながらも腹をわって話をしているとだんだんわかり合えるっていうことが理解できました.これからも,そういう人間関係をつくりながらやっていきたいなというのが今の現状です.
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