著/小安重夫
■定価2,420円(本体2,200円+税) ■四六判 ■288頁 ■羊土社
小安重夫先生は,「免疫学の全貌をわかりやすく伝える」というコンセプトの本を,羊土社から実に3度に渡って刊行されている.最初は1997年の『免疫学はおもしろい』,二度目が2008年の『免疫学はやっぱりおもしろい』.そして今回(2023年),『小説みたいに楽しく読める免疫学講義』である.さすがに26年間も経つとタイトルの雰囲気が変わるが,新刊の帯には「免疫学は面白い!」の文字が躍っている.コンセプトはずっといっしょなのだ.
はあーなるほどー,偉い人ともなると何度も本が書けてよいですねー,みたいなぬるい感想を持った人はいないだろうか? とんでもない.「免疫学でそれをやっている」ということに,我々は震撼すべきである.たとえるならば「Windows 95の解説を書いていたプログラマーがGPT-4搭載したMicrosoft Bingを搭載した 最新Windowsの解説を書いている」ようなものだ.偉業である.
そのすさまじさを「勝手に索引!」から紐解いていこう.リンク先で全部見られるのでお試しいただきたい.
たとえば上記の色を変えたところに着目して欲しい.本書の守備範囲が時間軸方向にめちゃくちゃ広いことがわかる.「マンハッタンプロット」は,SLEのゲノムワイド関連解析(GWAS)に関わるフレーズで,元のデータは2014年.一方,次の行にある自己寛容にまず言及したのはバーネットだが,これは20世紀半ばのことだ.「残された大きな謎」は2020年代後半から2030年代にかけて解明が進んでいく話である(※私見).過去,現在,未来が索引のごく近いところに並んでいるあたりに裾野の広さがうかがえる.樹形図を根元から枝先まで追うようなことを本気でやっている.
樹木では末端に近づけば近づくほど枝葉どうしの距離が広がるように,歴史を踏まえて語る医学書はどうしても扱う領域が狭くなりがちだ.しかし本書は,時間軸方向だけではなく,空間軸のカヴァー範囲も広い.
「勝手に索引!」の,「た~と」のあたりを適当に抽出するだけでこうである.脱感作療法,地中海熱,腸内細菌,痛風,天然痘,糖鎖.すごく多彩だ.あなたもぜひ自分の目で「勝手に索引!」を見てみるとよい.まだまだこんなものではない.なお,今回の索引項目は文章が長めである.スーさん(担当)の苦労がしのばれる.すみませんいい文章が多くて…….
記述された範囲がめちゃくちゃ広いことはおわかりいただけたと思う.となると次に気になるのはその読みやすさであろう.電話帳を通読できるほど我々の脳は優秀にはできていない.詰めこまれていればよいというものではない.
ここであえて,私のような40代中年医師のいじわるな目線を披露する.本書に冠されている「小説みたいに楽しく読める」というフレーズを,私は,「ああ……盛ったな……」くらいの第一印象で受け止めた.いや,まあ,もちろん期待はするのだけれど,普通は無理だろう.病理学ならまだしも(笑),相手は免疫学なのだから.これまで世に出た数ある免疫学関連の本の中で,「楽しく読める」が達成できたのはただ一つ,『はたらく細胞』くらいのものではなかろうか.
しかし,通読してみて驚いた.確かに本書には小説のムードが感じられるのである.どんな小説かって? 「他人の人生を体験させてもらえるような小説」,「仕掛けと謎を解くことに没頭させてくれるような小説」,「数十個のテレビカメラで関ヶ原の戦いを武将ごとに追いかけてくれるような小説」.驚くべきことに,本書には,これらの要素がみな含まれている.医学研究の歴史はナラティブに溢れ,ときにミステリアスで,しっかり群像劇なのだ.
強いて言うなら「評伝」の手触りも感じ取れる.評論をまじえた伝記.ノンフィクションの延長にある物語.「嘘や誇張のない司馬遼太郎」とでも言ったらよいだろうか.
免疫学は終わりのない拡張工事によって増殖する,「横浜駅SF」(©柞刈湯葉)のような世界だ.100年かけて構築された巨大な伽藍を端から描写することは現代の科学者をもってしても難しい.そこで小安先生は,「建築順」に免疫学を詳らかにするやり方を選んだ.研究者たちの戦いの歴史を追いながら,今日の学術的観点からその都度評論を加えていく.
鬱蒼とした科学の森の中では,スマホが通じない.GPSが効かないから現在位置がわからない.自分が今いるところが森の端っこなのか,それともだいぶ真ん中に入り込んでいるのか,そういったことが全くわからない.手近な木に頑張って登ってみても,梢まではたどり着けず,森を俯瞰できそうにない.鳥になりたいと思うがもちろん叶わない.
途方に暮れていたときにふと気づいた.森の中に誰かいる.細身にメガネ,少し小柄な姿勢のよい男が,歩調を乱さずにかくしゃくと歩いていくではないか.あわてて後を追いかけると,やがて前方が明るく開けて,きれいな湖が現れた.ほとりには素敵なログハウスも建っている.ぼうぜんとして話しかける.「いったいどうやって,迷わずに歩くことができたのですか?」すると彼は眉毛の両端を少し下げながら答えた.
小安先生は,つまりそういうことをなさっている.