田中竜馬/著
■定価4,400円(本体4,000円+税10%) ■A5判 ■408頁 ■羊土社
我々医師にとって,「通読しやすい医書」とはどのようなものかを考えてみる.まず,低難度の本を読めばいいというものではないと最初に言っておきたい.医書に関しては,「通読しやすい」は「スラスラ読める」とは必ずしも同義ではないのである.たとえば,一般向けや学生向け,あるいは勉強の苦手な医療者向けにまとめられたライトな本は,読み終わるまでの時間は短いが,読了後に自分に蓄積される知識の量が少ない.このような,レベル20を超えてなおスライムばかりスラスラ倒しているような行為は,(ラノベ的にはアリなのかもしれないが)実際にやってみると「作業ゲー」感がきつい.読んでいる最中に「読む価値がないかも……」と感じてしまうと,読書の時間がどんどん辛くなる.いくらわかりやすい文体であっても,得られる経験値が少ないと読んでいる方の気力が萎えるのだ.すると,結果的に「通読できない」.
ある本を2〜3割くらい読んだ時点で「明らかに自分の役に立っている感」がどれだけ得られるか.ここに,その本を通読してでも勉強したいと思えるかどうかの分かれ目があると思う.
その上で,学問に通底するナラティブがきちんと言語化されているかが重要だろう.辞書的に項目を引くのではなく,読み通すことである領域の医学がまるごと浮かび上がってくるような本.「専門知識同士を連結するためのストーリーの良し悪し」が本の読みやすさに直結する.筆者と版元の自己満足のために上付き表記の文献番号ばかり貼り付けたところで,学問同士の関係図や系統樹が見えてこない本は,通読していてもコンテンツ同士がうまくリンクしてこない.
偉そうに色々書いたが,まとめると,情報の量と質が本全体にみなぎっていること,それらを「物語として」叙述できていることが重要なのだと思う.もちろん,これらに加えて,文体がわかりやすいならばありがたいことこの上ないが,そこまで医書に求めるのは酷というものだ.なかなか三拍子は揃わない――
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で,田中先生の本であるが,なんと三拍子揃っている(笑).書ける人には書けるということだ.尊敬します.さあ,今回の「勝手に索引」を見ていただこう.本稿では,索引の一部を抜き出しながら解説する.Webでは索引の完全版を公開.QRコードからぜひアクセスしてみてほしい.
田中先生と言うと,「人工呼吸器の解説が激烈にうまい人」というイメージがある.私がはじめて先生の著作に触れたのが『Dr.竜馬の病態で考える人工呼吸管理』1)であったが,これには本当に感動した.その後も,William Owensの『人工呼吸器の本 エッセンス』2)の翻訳本を含め,さまざまな媒体,さまざまなタイミングで田中先生は人工呼吸器について語られてきた.そのいずれもが「通読しやすい」(※前述の定義による)から恐れ入る.
そして,上記の索引項目のページ数に着目してみてほしい,人工呼吸器にかんする話題が一部のページに集中していないというのも地味にすごいことだ.あえて医書を執筆する立場から述べると,「デバイスの話」はつい1つのコーナーにまとめてしまいたくなるものである.人工呼吸器ならそれ用に3〜4ページくらい割いて一気にやっつけたくなるのだ.しかし,田中先生は臨床の流れに合わせて人工呼吸器を文中に登場させるので,実に30ページ分くらいの幅にわたって人工呼吸器の話題が何度も扱われる.私の観察の仕方がマニアック過ぎるかもしれないけれど,これはかなり高度な作り方だと思うのだ.
さて,本書は「掛け合い漫才形式」のパートと解説パートとが交互に現れる体裁をとる.この形態の妙については,本連載の第1回にて取り上げた,田中先生のやさしくわかる集中治療シリーズの「内分泌・消化器編」3)でも解説したのだが,せっかくなので一部を引用して再確認してみよう.自分の書いた文章を引用して紙幅を埋めるの,原稿料の二重取り感があってワクワクする.
これは通読型の医書の基本形だと思う.かつ,どれだけ編集者が練り込んでも,著者本人にセンスがないと書けない非常に難しい構造でもある.会話パートをマンガにするなどの工夫も流行っているが,漫才部分に必然性が,解説部分に網羅性が,それぞれ高いレベルで達成されている医書というのは数えるほどしかないし,どちらかを欠くと途端に医書としてのクオリティがガクッと落ちる.近年で言うと,このスタイルで成功した医書は『オニマツ現る! ぶった斬りダメ処方せん』4)くらいではないか.それくらい難しいのだ.
しかし田中先生の本では,会話パートがあるからこそナラティブが頭に入るし,解説パートのまとめが丁寧だから知識の総量が保証されている.
たとえばこのあたりに注目してみよう.漫才パートで気になったところを索引抽出していくと,ときにこんなに「ゆるい」感じになる.軽口の数々に目を奪われる.しかし,「ボルトス(三銃士)がノルアドレナリン」のくだりは地味に文献ベースである(詳細はぜひ本書を買って読んでみてほしい).「フランスのステロイドは効きが良いのか」に至ってはとある臨床試験に対する「批評的吟味」なのだが,頭に残るうまいフレーズだ.いいなーこういうセリフ,私もいつか書いてみたい,けれどもここまで読ませるセンスが自分にあるかというと……うーんがんばろう.
これだけ書いても一部の読者には,「なぜそこまでして臨床をストーリーテリングする必要があるのか?」と不思議に思われるかもしれない.そういうあなたにはこれらを見ていただきたい.
「腎臓だけはゆっくりと血圧を下げても最初は腎機能が悪くなることがある」,「どれくらいなら『そこそこ』いいんでしょうか?」,「尿路感染症は,(中略)こんなふうにだいたい1日でよくなるのが特徴や」…….
これらはいずれも,現場のフィーリングとでも呼ぶべきものである.そして,実際にベッドサイドで働いているときには,このフィーリング,すなわちさじ加減や経験的な経過予測と言ったものが,思った以上に医者の行動を左右する.
読者諸氏も身に覚えはないだろうか? さまざまな文献で勉強し,最新のエビデンスをきちんと更新し続けなければいけないということを頭でわかってはいても,「さほど尊敬してないんだけどよく一緒に仕事をする,5〜6個くらい上の先輩医師が何気なく用いた輸液プロトコル」ばかり覚えて使っている,みたいなこと.流れの中で触れる臨床のナラティブには強力な刻印力というか精神に対する侵食性があり,またそう言ったものに限って,現場で再帰的に用いることがやけに多い.でも,ローカルな先輩のさじ加減をそのまま輸入するのもハラハラするだろう.ときにはエキスパートが文献ベースで見定めたさじ加減にも触れてみたいと思わないか.そういった時にこそ,通読型の医書の出番である.
そう言えば田中先生の編著で『集中治療, ここだけの話』5)もあったな.この方は本当に,わかってやっていらっしゃるんだなと思う.
臨床のナラティブを他者に伝えるときの鉄則,「程よい分量の名言を用いる」も完備.名言というのは得てして多すぎるとうっとうしいものだ.聞かれてもいないのに座右の銘を答えたがるどこぞの偉い医者みたいになってはいけない(※このコラムはフィクションです).スパイスには分量が肝心,そして本書のスパイスの使い方は絶妙である.
私の本書に対するマニアックな絶賛はこれくらいにしておこう,あとはぜひ,QRコードで完全索引を見てみてほしい.COPD,PE,ショックなど,サブ項目がモリモリ並んでいるが,これらをざっと眺めているだけでも楽しいと思う.そして,「こんな索引を作られるほどに読み込まれる本を書く人」にも思いを馳せて欲しい.読者の皆さんもいつかは書く側に回る,そのときにきっと,遅効性の毒のように,田中先生のやっていることのすさまじさが身にしみて くる.