國松淳和/著
■定価3,300円(本体3,000円+税10%) ■四六判 ■296頁 ■金原出版
残念ながら,というべきか.はたまた,一部の人にとってはありがたいことに,というべきか.蓄積されたエビデンス,練り込まれたガイドライン,ワークフローを最適化するシステム「だけ」があっても,どうやら外来診療はうまく回らない.匠の業・ベースト・メディスン(TBM)が必要らしいのだ.集合知が解決してくれない,個人で磨き抜くしかない技能が,医業の成否に関わる.無形の技術,言外のうまさ,問答無用のセンス.「あの医者,なんかうまいなー」というセリフを,誰もが日々うっすらと思い浮かべ,あるいは実際に声に出していると思われる.
同じ診断基準に従って,同じ処方を出しているはずなのに.どうしてだろう,あちらは「名医」でこちらは「そうでもな医」.
「西洋医学はそんなことではだめだよ,医者が多少有能だろうが学が足りていなかろうが,どちらでも患者が同じ結果を得られるようにしなければ意味がない」.
おっしゃるとおりだ,しかし,それはきれいごとである.患者の気持ちになるまでもなく,かかるなら名医の方がいいに決まってる.だから医者は今日も研鑽に努める.「AIには任せられない部分があるよねー」などと知りもしない機械学習技術にマウントを取りながら.
一般的には,「読んで身につくものではない」とされる.現場百遍ならぬ外来百遍.持って生まれた資質の差とまで言われたら悲しい.努力や経験値で成長が見込めないステータスであるならば救いがない.マイケル・サンデルならずとも「センスも運のうち」という本は書けそうだ.「親ガチャのリセマラ」が唯一の正解だなんて切ない.
しかし,探せばあるものだ……「センスの身に付け方」を書いた本が.
あえてプロジェクトX風に呼び捨てにするが,國松淳和は天才である.ただしそれは,「生まれ持ったセンスが強いから」という意味だけではない.「無形の技術を有形の文章に落とし込むことができる」という意味で彼はより具体的に天才なのである.
さあ,今回の「勝手に索引」を見ていただこう.本稿では,索引の一部を抜き出しながら解説する.Webでは索引の完全版を公開.QRコードからぜひアクセスしてみてほしい.……と,いつものように決まり文句をコピペしたところでふと気づいたが,今回のお題本,『また来たくなる外来』の完全索引は,本当に,騙されたと思って,読者は全員QRコードから全部の索引項目を見てみるべきだ.医書の常識を超えている.自分で選んだフレーズをスーさん(編集者)が組み直した索引を見てほれぼれした.項目1つ1つの圧が強い.百花繚乱とはこのことだ.
「診断エラーなる謎の心理学的反省」.「Take home messageなる刺さりもしない薄いご本人方の『未来に役立ちそうにない漫然としたスローガン』」.高笑いしてから,首をすくめて,背筋を伸ばす.自然と背中のトレーニングになるような言葉たち.「EBM, まさかの濡れ衣」に至っては,仮に本書を未読だったとしても,目にした人の心になんらかの情景を思い起こさせる力を持っている.
蠱惑的なピースの数々が,あなたの脳内にジグソーパズルのように「仮想風景」を作り上げていく.それは,外来診療というものが長らく「密室のおしごと」であり,研修前期のごく短い時期にオーベンの背中を見て学ぶ以外ではほとんど他者から学ぶ機会がないような,「あとは自分のセンスでどうにかするしかない世界」だったからこそ,余計に映える.「仮想外来見学」が本書のキモの一つだ.
著者はおそらく,強く目立つ言葉(いわゆるキラーフレーズ)を無自覚に使っているのではない.「この本では強く情景を想起したほうがいい」と判断した上で,豊富な語彙の中から脳幹に突き刺さるようなものを選んで配置している.その証拠に,しばしば,キラーフレーズを用いずに,一見すると取るに足らないようなフレーズで描写がなされることもある.ただし…….
「宇宙人である」も「うなぎ理論」も「うん,筋トレしよう」も「エビデンスお兄さん」も「嘔気・嘔吐のインパクトの強さが熱苦痛を完全に凌駕する」も,ふーん,としか思わない言葉の羅列ではある.しかし,本書を一度でも読み終わった人は,この索引項目の並びだけで陶酔できるに違いない.すべて思い出せる.ありありと浮かぶ.ありふれた言葉であっても本書の中ではキラーフレーズになっている.なかなかこんな医書に出会うことはない.
あと,細かい指摘だが,漢字とひらがなの割合が程良すぎる.地味に思えるかもしれないが医書の節回しとしては相当巧い.
ハイライトをかけた「あれ……こんなあたり一面びしょびしょ……」は映像喚起能力が高すぎる.舞台演劇の台本並みに役者は心を込めて読むことができるだろう.宮沢りえに読んで欲しい.「こんなことを言う医者は呪われたらよい」は古田新太によく似合う.
ここではハイライトしなかった部分もまた秀逸である.「安堵」「良い子」に線を引き,索引として抽出したことで,私はなんらかの表彰を受けてもおかしくない.「あそこは線を引くよねー!」という部分だ,間違いない,読めばわかる.「よくその言葉を選んでここに置いたなあ」という意味で脱帽する.「語彙力」とは単語の分量だけではなく,選択の巧みさによって規定されているということがはっきりする.
國松淳和は多彩な医学書を著しているが,そのすべてに共通するテクスチャーがある.彼の本を読んでいるときに一貫して私が思い浮かべるイメージは,(先ほども少し出てきたが)ジグソーパズルである.それも,1,500~2,000ピースくらいの,「中級者向け」のやつ.用いられているピース(言葉)の数が多く,種類も多彩であるために,ジグソー初心者向けとは言えないが,模様が非常に華やかで場所によって色彩が明確に異なるため,盤面のどのあたりにどのピースがはまるかなんとなくわかる(上級者ほどの超絶技能を必要としない).
そのような書籍に対して「勝手に索引」を作ると,凄さが際立つ.完全とは言っても所詮は「索引」であり,本文ではないにもかかわらず,上から下まで眺めるだけで,「書籍の雰囲気」がふわっと浮き上がってくるのだから恐れ入る.
外来診療技術を語る上での,疾病(題材)の選び方もおもしろい.ジグソーパズルの例えを敷衍するならば「元絵の選び方がうまい」.偽痛風を仮説の1つとして取り上げる(そしてすぐ取り下げる)というシーンなど,じつにテクい.片頭痛,ノロウイルス感染症,BPPV,疼痛性障害,いずれも,「このモチーフを選んだからこそ,画家の実力が十二分に発揮される」という疾病ばかりだ(そして普通の医者は書籍であまり取り上げようとしない疾患でもある).
医書に限った話ではなく,たとえば講演,ブログ,あるいはインスタライブやツイッタースペースなど,あらゆる「発信」に共通することとして,医者がなんらかの概念を語るときに,漠然と「自分が最近診た症例」をモチーフとするのはリスクが高いし効果は低いと感じている.症例それ自体をどうしても伝えたいというなら話は別だが,医者が日々扱っている「言外に達成される技術」を語る上で,モチーフ(疾病の種類)によって描写力に差が出ることに自覚的でないと,語りの効果が薄れる.疾病と医療技術との間には相性があり,それを語り得るかどうかに対してもまた相性がある.國松淳和はそのことをよくわかっている.
不明熱と言えば,國松自身がかつて中山書店から出した『外来で診る不明熱』1) や,金原出版の野心的な書『Fever』2),さらには医学書院の大著『不明熱・不明炎症レジデントマニュアル』3を想起する.その一方で,フラッシュカード・トレーニングのくだりは中外医学社の奇書『Kunimatsu’s Lists』4)にも通じる.しかし,「國松らしさ」が存分ににじみ出ている本書の左右には,丸善出版『あたしの外来診療』5)と,ちくま新書の『医者は患者の何をみているか』6)を添えるのがしっくりくるだろう.医書ばかり読むのに疲れたよ,と思うあなたには金芳堂『ブラック・ジャックの解釈学』7)が控えている.医書の世界はもはや國松淳和に支配されつつあることを我々はもう少し自覚したほうがよい.國松が本を出すたびに,他の「医書書き」たちは,三国志で呉の軍師・周瑜が「なぜ同じ時代に孔明がいるんだよ」と言って血を吐いたシーンを思い出すことだろう.かく言う私はさしずめ魯粛(しかも横山光輝版8))なので,肩を落としてその場を去るのみである.