ミトコンドリアがわかれば代謝がわかる
著/田中文彦
■定価3,520円(本体3,200円+税) ■A5判 ■157頁 ■羊土社
ALT,ASTがトランスアミナーゼ,すなわち酵素であることを,知らない研修医はいないだろう.
G6P(グルコース6ホスファターゼ)欠損により発症する糖原病では,肝臓と腎臓にグリコーゲンが蓄積するというのも,国試のヤマとして有名である.
これらの酵素についてはどんな医学生も必ず一度は生化学の講義で習っている.しかし,研修医が……いや,研修医に限らないか……臨床医が,どれだけ学部時代の講義を覚えているものだろうか.糖尿病内科の研修を終えたあとは,忘れていくばかりではないのか.
生化学の教科書はいったいどこに消えた? 大学近くの古書店か.部室を経由して知らない後輩の手元にあるのか.実家の本棚のどこかに潜り込んでいるのか.
落としたら即留年と脅されて,必死で暗記したはずの基礎医学は,臨床が近づくにつれて急速に後景化した.クレブス回路や尿素回路はすっかり霧の中.おぼろげな記憶の中にかろうじて見えるのは,有機体のくるくるサイクルと,往来入り乱れた矢印の数々.「酸」と「―ス」と「―ゼ」ばかりの登場人物たちに,スライムとスライムベスとホイミスライムとスライムナイトくらいの違いしか見いだせず,過去問集に挟んであった「いずれ国試でそれぞれが欠損した病気に出会うから覚えておこう」というメモをさりげなく捨てながら,執念で覚えた謎フレーズの数々.オクイアサコ不倫! パルステ俺の暖簾! 何を意味していたのか思い出せない,語呂の山.
あれは,いったいなんだったんだろう.
生化学のことを思い出そうと思っても,罪悪感と残尿感の合いの子みたいな感情が心をひたすばかりなのである.
ごめんなさいね,若い人たちはもっときちんと覚えているのかもしれない.でも少なくとも私は,生化学のことをぜんぜん覚えていませんでした.お恥ずかしい.だから本書を手に取った.『忙しい人のための代謝学』.レビューを見るといわゆる「生化学をやり直すための本」のようである.やり直そう! ……このセリフを使ったカップルはだいたい別れるよな.
半信半疑で読み終えた私は,なんと,20余年の時を経て,生化学のやり直しに成功したのである.自分でも驚いた.めちゃくちゃいい本じゃん.
というわけで,今回の「勝手に索引」をご覧いただこう.リンク先で全部見られるぞ.
本書を読み終えて真っ先に思ったのは,もしこれを学部時代に手に入れていたら,「生化学とはいったいなんのために学ばなければいけないのか」「生化学をやったからといって何になるのか」といった(怨嗟の混じった)疑問が,まるっと解決できただろうということだ.それほど分厚い本ではないのだが,生化学とその周縁との関係が見事に描かれている.交差点が描写されている.
今どきTwitterで,ある学問が何の役に立つのかと素朴な疑問を呈したが最後,たちまち有識者たちに周りを取り囲まれて,「役に立つか立たないかで学問を切り分けるなんて下品だ!」とボウボウに燃やされること請け合いだ.でも,我々は果たしてそんなに強い生き物だろうか? 目の前に積み上がったタスクを見て,意味や実利を探ってしまうことは,それほど大きな罪だろうか? たとえば学部の授業において,「生化学が将来具体的に役に立つシーン」を最初に見せてもらっていれば,私ももう少し勉強に身が入ったろうにと,悔しく思う.今の学生はこれを読みながら生化学を学べるのか.それはすごくうらやましいことではないか.
ミトコンドリアの膜間に水素を溜めて,水力発電のタービンを回すようにATPが合成されるイメージの説得力! 嫌気性の解糖系と好気性のミトコンドリア代謝の違い,TCA回路(私はクレブス回路として習った)の巧妙な使われかた,糖新生のメカニズム,脂質代謝,肝臓・腎臓・筋肉など臓器ごとの代謝の違いとその意味.生化学を絵の具にして,臨床を描いた本.しんどい化学式やカスケードを眺め続けるモチベーションを高めてくれる,的確な比喩,エピソード,そしてデザインの良さ.
大学受験における酸化還元反応とは,あくまで電子の移動であった.それは決して間違ってはいなかったが,実際に体内で起こっていることはもっと遙かにダイナミックであった.水素イオンやリン酸基,アミノ基などがミトコンドリアの内外で躍動し,酵素による一方通行があるかと思えばリンゴ酸シャトルやクエン酸シャトルが「急がば回れ」的に迂回路を切り開く.生命が配備した補助タンクの数々たるや進化の妙としか言いようがない.これらは,臨床を知った今だからこそ逐一腑に落ちるとも言えるし,臨床を知る前であればなお,新書のように楽しんで読めたことだろう.
アンモニアの除去についての一連の解説は秀逸だ.かく言う私もこれまで,人体を社会に例える比喩をたくさん用いてきたが,「エネルギープラントであるミトコンドリアの排気ガスを使って劇物の処理を行う」というくだりは見事というほかない.なぜ今までこの例えに気づかなかったのかと,かなり悔しい.歯噛みするほど名著.ブルーバックスで出てもベストセラーになるんじゃないか? 講談社は惜しいことしたね.