マラソンのトレーニングには標高1,500〜2,000 m程の場所で行う「高地トレーニング」という方法があります.ではもっと標高が高くなるとどうなるのでしょうか.標高8,400 mだと大気圧は272 mmHg,PIO2は47 mmHgまで低下します.このような環境で人間の身体はどこまで順応できるのでしょう.
ロンドン大学のGrocottらは,およそ70日間かけてエベレスト山頂に向かい,標高5,300 m,6,400 m,7,100 m,8,400 mの各地点で被験者から動脈血を採取し血液ガス分析を行ったところ,非常に興味深い結果が得られました1).なんと標高8,400 mでは,4名の被験者の平均PaO2は24.6 mmHg,平均PaCO2は13.3 mmHgと大変低い値だったのです.もちろん被験者たちは意識清明であり,自ら下山できています.彼らが無事だった理由は人間の順応力にあります.もし順応していない人間が突然同様の環境におかれたら,数分以内に意識を失ってしまいます2).
PIO2が低くSaO2が低下する環境でCaO2をできるだけ維持するには,酸素を運搬するHbを増やす必要があります.実際に被験者の平均Hb値は19.3 g/dLまで上昇していて,標高7,100 m地点までは海抜0 m付近と同等のCaO2を維持できていました.さらにSaO2低下に抵抗する機序も働きます.登山中に採取した彼らの動脈血には強い呼吸性アルカローシスが存在しており,平均pHは7.53でした.これによりヘモグロビンの酸素解離曲線を左方移動させ,同じPaO2でもSaO2を高く保てるようにしていました.また,これとは別にPaO2も維持される機序も働いていました.これら複数の代償機構によって,人間の体は何とか低圧低酸素環境に順応しようとします.
しかし登頂に70日間という時間をかけても,標高8,400 m地点では7,100 m地点まで維持できていたCaO2が急激に低下していました.この原因は無症候性高所性肺水腫などのいわゆる「高山病」が起きたこと,さらには人間の肺胞ガス交換における機能的限界などが考察されています.つまり人間が自然呼吸で生きていける限界が,標高8,400〜7,100 mの間あたりなのではないかと考えられます.高い山の登山は想像以上に危険で身体に負担がかかることがおわかりいただけましたか?
PIO2(吸入気酸素分圧),PaO2(動脈血酸素分圧),PaCO2(動脈血二酸化炭素分圧),CaO2(動脈血酸素含量),Hb(ヘモグロビン),SaO2(動脈血酸素飽和度)