2005年にイングランドで記憶喪失の男性が保護され,名前がわからなかったのですがピアノが上手であったことから「ピアノマン」と呼ばれて話題になったことがありました.後に記憶喪失は芝居であったともいわれていますが,一般的に記憶喪失と呼ばれるものの多くは詐病であるという説があります.私も自分で実際に一過性全健忘(Transient Global amnesia:TGA)を診るまでは,そんな都合がいい記憶喪失なんてないだろう,と思っていました.
ある日,近くの病院で救急外来をしていますと,急に記憶がなくなったと言いはじめた50歳代の男性が,心配したご家族に連れられて受診されました.名前も生年月日も言えるのですが,朝からの記憶がなく,今ここにどうやって来たかわからず,さらには診察して頭部CT検査をしたのですが,その説明をしていると頭部CTを撮ったことさえ忘れていました.こんなことははじめてで,本人も記憶がなくなることに不安な様子でした.結局,この患者さんは血圧が200 mmHg以上に上がっていたことから高血圧との関連が推測されましたが,MRIや脳波検査などを行っても異常はなく,片頭痛や頭部外傷,てんかんの既往もないことから,TGAの診断基準を満たしました.失った記憶がよみがえることはありませんでしたが,翌日には全く正常に戻りました.TGAは海馬周囲のてんかん発作もしくは虚血によって起こることが多いとされていますが,この患者さんのTGAの原因はいまだに判然としません1).
別の記憶喪失として,泥酔してさんざん暴れた人がきちんと自宅に戻り,翌日には全く覚えていない,といった話をよく聞きます.記憶には海馬にある2つの神経細胞間で起こる長期増強というプロセスが大切なのですが,ラットを使った実験で,長期増強に関与するNMDA受容体(N-メチル-D-アスパラギン酸受容体)の活動がアルコールによって半分まで低下することがわかりました2).アルコールで記憶をなくすことをBlackoutと呼ぶそうですが,これが起きやすい状況として,急激な血中アルコール濃度の上昇,胎児期のアルコール曝露,精神安定剤の併用などがあげられています3).興味深い研究では,オーストラリアで,一卵性と二卵性双生児でBlackoutに差があるかを調べたところ,飲酒の習慣なども考慮したうえで,Blackoutの半数以上は遺伝性であることを報告しています4).
今はCOVID-19の影響で落ち着いていますが,時間制限で飲み放題のお店が多くなっているためか,重症のアルコール中毒の搬送が増えたような印象があります.いずれにしても,記憶をなくしやすい状況をつくらないことが大切でしょう.