硫化水素(H2S)は,温泉地や火山などで発生する有名な毒ガスです.この危険な硫化水素ですが,1990年代に日本人によって動物の脳に硫化水素が存在することが報告され,その後,生体内のさまざまな組織で恒常的に硫化水素が合成されていることがわかりました1).危険なガスを生体がなぜつくるのか,またその生理作用については長年謎であったのですが,最近,硫化水素の働きがさらに研究され,治療に応用されるようになってきました2).
硫化水素はミトコンドリアにあるシトクロームcオキシダーゼを阻害するので,細胞内で酸素が利用できなくなり,中枢神経系や他の臓器に重大な障害を与えますが,この性質を利用すると細胞が酸素を使わなくてもよい状態,つまり休止状態におくことができるのです.マウスを使った実験で80PPMの硫化水素を吸入させると,吸入開始5分後には酸素消費量は約半分に,二酸化炭素排出量は6割減少,体温と呼吸数も有意に低下しました.さらに,これらの反応は吸入を中止すると1時間以内に完全に元に戻ることが証明されたのです3).これは,硫化水素が人工的にマウスを冬眠状態にしたのであり,重症の脳障害の際に神経細胞障害が急速に進行しないように脳低体温療法を行うのと同じ理屈で,急性期の障害が起きないように細胞を休ませることができることになります.ちなみに,硫化水素濃度が20PPM以上なら角膜に炎症が起き,労働環境での曝露限界値は5PPMで,500PPM以上ではほぼ即死しますから,この80PPMというのはかなり高い濃度ではあります.
また,硫化水素は胃粘膜を胃酸から守るための粘液や重炭酸塩の分泌に密接にかかわっていることが知られています.NSAIDsが胃粘膜に障害を与えるのは,硫化水素を合成するための酵素であるシスタチオニンγ-リアーゼ(cystathionine γ-lyase:CSE)という酵素を不活化するためであり,NSAIDsを使うと胃粘膜の硫化水素濃度が減少することもわかっています.つまり,硫化水素が欠乏すると胃粘膜障害が起きるため,近年NSAIDsに硫化水素を発生させるような工夫をした新薬が開発され,大変すばらしい効果が期待されているのです4).
硫化水素中毒で死亡した患者さんは緑色,と学生の頃に習ったかもしれません.硫化水素濃度が高いとヘモグロビンが硫化ヘモグロビンになったときに血液が黒緑色になり,死斑の色が緑がかってみえることがありますが,シュ●ックのように真緑になるわけではありません.