腹痛を「考える」会/著
■定価(本体 4,000円+税) ■A5判 ■266頁 ■医学書院
千鳥のノブの持ちネタに,「クセがすごい」というツッコミがある.ノブはいつでもこの業物を帯刀し,鯉口を斬った状態で大悟と対峙して,ここぞというタイミングで一閃して爆笑を生み出す.CMにまで用いられる鉄板ネタであり,聞いたものをみな納得させてしまう強度のあるツッコミだ.
実際のところ,私たちはみな,クセやアクが強いものを心のどこかでひそかに探して愛でているのだと思う.少しの後ろめたさと,背徳の快感と共に.そうでなければ「クセがすごい」という極めて短いツッコミが,これほど多彩なニュアンスを持って私たちの心に飛び込んでくることはないだろう.
ここで,「いや,ちょっと待って,私は某病理医とは違って,クセとかアクみたいな気持ち悪いものを愛でる趣味はないよ」と反論する人もいるかもしれない.でも,そのセリフがすでに,私とあなたの違いを認識して区別しようと試みている.彼我の輪郭を重ねて,差異の部分に色を塗って指摘することは,互いの「クセ」を探すことと同じだ.クセと言って伝わらないのであれば,逸脱,違和,あるいは差延と呼んでもいい.
私たちはクセが気になってしょうがない.
さて,今月のお題本.前置きでピンときた人もいるだろうけれども「クセがすごい」.最近SNSで流行っているような,日記に毛の生えた程度のペラッペラなネット記事ばかり読んでいると,本書の刺激は強烈だ.目が覚める.背筋が伸びる.これが知性だよなあってため息が出る.こだわり,個性,こってり高カロリー.鋭利なアイスピックで氷を砕いていたら全部溶けちゃいました,っていうくらいの念入りな掘り返し.私はこういう本が死ぬほど好きだ.ただし本当にしんどい読書であった.完読したことでシナプスが5,000個くらい死んだと思う.それくらい脳に負荷がかかる楽しい読書体験.仮に,医学部の4年目くらいに本書を読了しておけば,その後確実に「東大王」みたいな医者になれるだろう,すなわち若干のキモさと潤沢な若さで周りのおじさんを魅了するタイプの医者に.
今回の「勝手に索引」を見ていただこう.いつものように,Webでは完全版を公開.前回も長かったが今回も長いぞ.本項では,一部を抜き出して説明する.
本書は痛みのメカニズムを妥協せずに追い求める本だ.タイトルに「腹痛」とあるから,たいていの読者は「まあ腹部疾患の症候論を語るんだろうな」と予想して読み始めると思うが,それだと推測の「方向」は合っているのだけれど「程度」が期待をはるかに超えてくるのでびっくりすることになる.数多の類書と比べても,1つの命題に対する思索が長くてしつこい.往年の名作『スラムダンク』で河田弟がダブルクラッチを決める際に,ブロックに飛んだ桜木花道の滞空時間を見て「あれ……まだいる」とつぶやいたシーンを思い出してほしい.今のはすばらしい例えだった,読者は全員よくわかったと思う.
胆石の痛みがなぜ右肩に放散するか? 知ってるヨ,要は関連痛だろ,なんて甘っちょろい気持ちで本文を読んでいると,ドカンとぶつかる.なにせ,「関連痛」だけでこれだけのサブ項目を抱える教科書だ.
痛みをどうパターンに分けて診断するか,痛みにどう対処して「手当て」するか.そういった「研修医が基本的になんらかのかたちで必ず勉強する内容」を網羅的に書かれた本ではない.それ以前の部分,もっとプリミティブな命題.「なぜこういう痛みが成立するのか?」という,症候学や疾病学のコアの部分を突き詰めた議論.正直,盲点である.だから,じっくり読む.
「うっ,なるほど,そこはあんまり考えたコトなかったなあ」
ほとんど毎ページのように,口の中でこのような言い訳をブツブツ呟くことになる.
本書のネットリとした思索のうねりを支えるのは,序盤の「準備運動」の部分だ.見たことはあるけれど覚える気がしなかった神経配置,デルマトーム,関連痛について,武器だという事は知っていたけれど,「ここまで研がないと斬れない刃物だったのか(これだけ錬磨すれば使えるよなあ)」という感想がおのずと出てくる.神経解剖学と痛みの伝わるメカニズムにまっすぐ向き合おう.骨太でけっこう大変だ.学生時代に神経生理を寝て過ごした方(例:私)にとっては正直苦痛かもしれない.しかし,ここでふんばれ! 本書のルールを体に取り入れろ,そうすると本書の中盤以降は楽しくてしょうがない.
印象深いのは本書の随所に認められる「○○を考える」というサブ項目タイトルの数々だ.虫垂炎の「こと」,胆嚢炎の「こと」,腹部診察の「こと」を覚えるのではなく,あくまで「虫垂炎を考える」,「胆嚢炎を考える」,「腸間膜リンパ節炎の腹痛を考える」というアイキャッチ.えっ,腸間膜リンパ節炎の腹痛を考えるって!? ギョギョッ,そんな思考をしたことがない…….
筆者は救急現場で働いていた時代が長いそうだ.執筆のベースにあるのは豊富な臨床経験.血の通った臨床の筋道.クリニカルクエスチョンの深度.なのに,これまでの救急医の本とはどこか違う雰囲気が感じられる.
特筆すべきは,文章の端々に垣間見える,今や古典と称されるような「旧仮名遣い時代の文献」を引用した考察の数々だ.「温故知新」という額装された四字熟語が脳に攻め込んでくる.いったい誰なんだこの著者は.調べてもわからなかった.それもそのはず,本書は「匿名」で書かれているのだ.そ,そ,そんな医学書,ありえる? クセがすごい! 自然と笑みがこぼれる.
福井大学名誉教授の寺澤秀一先生が,帯だけではなく本文にも「顔写真つき」で掲載されている理由を考える.邪推に過ぎないが,「著者をマスクした医学書」をどう編集したらいいものか,医学書院も迷ったのではないか.まったく楽しいことをする.唯一無二の本だ.
これらを“tips”ととらえてしまってはダメであろう.日常のルーティンで「なぜかは知らんけどそういうものなんだよ」と通り過ぎてしまいがちな,メカニズムに関する疑問や発見を,素通りせずにきちんと文章にするということ.それを,匿名でやるということ(笑).
知 ら ん が な お 前 は 誰 だ (笑)
思わず紙面にツッコんでしまう.でも,スナップを利かせた右手がそのまま宙を舞う.「この問いかけができる本ってやっぱり強いよなあ……」.
◆ ◆ ◆
今月は以上.至高の名著だ,ぜひ心して読んで欲しい.よかったら索引の完全版も見て欲しい.担当編集者のスーさん(あだ名)は,だいぶがんばって項目のチェックをしてくださった,ぼくがあまりに長文の項目を蛍光ペンで塗りまくるのでデザインも大変だったろう.力作.
最後に,私が今回本書を連載に取り上げるにあたって,1つだけ懸念していたことを付記しておく.それはほかでもない,本書の前書きにあるこの一言だ.
うっ,これ,レジデントノートの連載なんだけどな……まあいいか…….
詳細は前書きを読んでいただきたいのだが,匿名著者の言いたいことはよくわかる,それでも,「レジデントノートの隅々にまで目を通すような初期研修医」はどのみちタダモノではないから大丈夫だと思う.かまうもんか,読んで味わえ.
そうだ,言い忘れていた.著者は現在病理医だそうだ.心の叫びを止められない.「クセ……!」